それでは、バビロンにいるエゼキエルに話を戻しましょう。この預言はエルサレムの包囲と没落の後に与えられたものです。
この箇所では、エゼキエルはユダの周囲の敵に対する預言を語ります。それはアモン人、モアブ人、エドム人、ペリシテ人、ツロ人、そしてシドン人に関するものでした。
彼らには共通点がありました。それは、ユダに対して悪意の心を抱いていたことです。
バビロン人がユダを攻撃したとき、これらの国々はその状況を喜びました。ある国々はユダの苦しみを自分たちの繁栄のために利用し、またある国々は復讐を行いました。
そのため、神様は彼らを裁き、彼らの没落を預言されたのです。
私たちはここから何を学べるでしょうか。
私たちは周囲の人々に対してどのような心を持っているでしょうか。悪意の心を抱いているでしょうか。
例えば、相手があなたを傷つけたとき、あなたはその人を許すことができるでしょうか。また、その人に悪いことが起きたならば、あなたはそれを喜び、「彼はその悪いことに値する人だ」と言うでしょうか。
さらに、相手が困っているとき、彼らを助けるのではなく、彼らの苦しみを利用しようとするでしょうか。
神様はそのような態度を非常に嫌われます。神様の民として、私たちは心の中にそのような態度を抱いてはいけません。
ダビデのことを考えてみましょう。ダビデを殺そうとしたサウルが殺されたとき、ダビデは喜ぶどころか、彼のために涙を流しました。さらに、サウルとその息子ヨナタンのために哀歌を書いたのです。
また、サウルの子イシュ・ボシェテが自分の民によって殺されたとき、ダビデは「この国を団結させる絶好の機会だ。きっと私は王になるだろう」と考えることなく、その殺人者たちを罰しようとしました。
ダビデは決して完璧な王ではありませんでした。しかし、彼は悪意の心を捨てて憐れみの心を抱きました。そのため、神様は彼について「この人はわたしの心にかなった者だ」と語られたのです。
では、あなたの心はどうでしょうか。あなたの心は悪意に満ちているでしょうか。それとも、憐れみに満ちているでしょうか。イエス様は次のように言われました。
「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(マタイ5:43-45)
