この箇所では、神様は再びユダの周辺の国々を厳しく責められます。なぜなら、エルサレムが倒れたとき、彼らがそれを喜んだからです。
まず、神様はエドムを責められました。エドムはユダに対して悪意や妬み、怒りを抱いていただけでなく、ユダの苦しみを自分たちの利益のために利用しようとしました。
そして、神様はイスラエルにその国々の裁きとイスラエルの癒しについて伝えられました。
とはいえ、イスラエルはその憐れみにまったく値しませんでした。彼らが癒されるのは、イスラエルの性格によるのではなく、神様の恵みによるのです。
むしろ、彼らが癒されるのは、神様のご性質によるのです。
エルサレムの没落の際、周りの国々は神様に向かって「高慢なことばを吐いた」のです。(35:13)
けれども、神様がイスラエルを癒すとき、その国々は神様がどのようなお方であるかを知ることになります。
つまり、神様は力ある神であり、恐るべき神です。また、神様は約束を守られる神であり、罰を与える神でありながら癒す神でもあります。怒りの神でありながら、人を赦す神なのです。
したがって、イスラエルを通じて周辺の国々は、神様だけが主であることを知るようになります。
神様はどのようにしてイスラエルを癒されるのでしょうか。それは人間の心を変えることです。他の神々には決してできないことです。
そして、神様はこう言われました。
わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(25ー27)
そのようにして、神様は私たちの心に働きかけておられます。私たちは神様に背を向け、自分の道を歩みましたが、それでも神様は私たちを救ってくださいます。
私たちの良い性格によってではなく、神様ご自身が素晴らしいお方であるからこそ、私たちを救われるのです。
私たちの行いによってではなく、むしろ神様の御業によって、私たちは救われます。
パウロはこう書きました。
神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。(テトス3:5-7)
私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちがどんなに倒れても、神様は私たちを救うことができます。神様は私たちを良い性格によって救われるのではありません。
もし私たちが本当に良い人であれば、救いを必要としないでしょう。しかし、私たちは罪人であり、救いが必要です。なぜなら、私たちは神様に背を向けて、自分の道を歩んだからです。
ですから、もしあなたが神様から遠く離れているのなら、神様に向き直りましょう。そして、神様の赦しを求めましょう。そうすれば、神様はあなたの声を聞き、あなたを癒してくださいます。
