この箇所では、私たちはいくつかのことを見ます。
一つ目は、ユダヤ人たちがもう一度いけにえと捧げ物を捧げ始めたということです。また、何年かぶりに彼らは仮庵の祭りを祝いました。
二つ目は、彼らが主の宮を再建し始めたということです。そして、神殿の礎を据えたとき、彼らは大いに喜びました。
11節には、こう書かれています。
そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。(エズラ記3:11)
けれども、同時に、泣いている人もおり、その涙は喜びのためではありませんでした。
しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。
一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。(12-13)
どうして彼らは泣いていたのでしょうか。おそらく、彼らにはほろ苦い思いがあったのだと思います。彼らは愛する宮の再建を見て、喜びました。それでも、ソロモンの宮と比べると、その新しい宮には栄光がありませんでした。
時々、私たちの悪い決断によって、私たちの人生はめちゃくちゃになります。つまり、私たちの罪によって、私たちの結婚や、健康や、家計を壊してしまいます。
そして、私たちが悔い改めると、神様は私たちを赦してくださいます。また少しずつ、神様は私たちの人生を癒し始めます。その癒しによって、私たちは喜びます。
しかし同時に、私たちは振り返って後悔します。私たちが人生の被害を見て、だんだん私たちの関係や、私たちの人生は癒されているけれど、そのプロセスは苦しいです。そして、私たちが再建するものは以前のものほど、あまり良くないと思います。
それでも、あなたの後悔によって圧倒されないようにしましょう。私たちが悔い改めると、神様は私たちが自分の失敗とその結果に焦点を当てることを望んでおられません。
むしろ、私たちが神様の赦しと恵みに休んで、未来に焦点を当てることを望んでおられます。そうすれば、神様は私たちのすべての涙をすっかりぬぐい取ってくださり、神様の栄光は私たちを通してもう一度輝き始めます。
パウロの言葉を覚えておきましょう。
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(第二コリント7:10)

2 replies on “喜びと後悔”
[…] 以前のブログで書きましたが、ソロモンの宮を見た世代は、新しい宮の礎を据えるのを見た時に泣きました。なぜなら、ソロモンの宮の栄光は、新しい宮の栄光よりも素晴らしかったから。 […]
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