ゼカリヤ書には、たくさんの警告と戒めがあります。けれども、同時に、励ましの言葉も記されています。
この箇所では、両方の要素を見ることができます。
神様はまず、ユダヤ人を励まされました。エルサレムは復興し、喜びと平和に満ちた安全な場所になると約束されました。また、散らされていた人々がイスラエルに帰還し、再び彼らは神様の民となり、神様も彼らの神となられるのです。
ユダヤ人にとって、それは想像を超える希望でした。それでも、神様は彼らに力強く語りかけられました。
もし、これが、その日、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。――万軍の主の御告げ――(ゼカリヤ書8:6)
もちろん、そうではありません。なぜなら、神様は何でもできるからです。
だからこそ、神様は彼らにこう語られました。
勇気を出せ。あなたがたは、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。(9)
ユダヤ人たちが神殿の礎を据えたとき、神様の預言者たちは彼らを励まされました。それゆえ、ゼカリヤは彼らに言いました。「その預言者の言葉を思い出し、諦めないでください。反対があっても勇気を出し、この神殿建設を終えなさい。」
神様は私たちにも同じように言われます。神様の力によって私たちは救われました。だからこそ、反対があっても私たちは勇気を出し、神様が計画されたように神様の宮となるべきです。
神様は私たちの内に住んでおられるのですから、私たちは聖なるものとなり、神様のために生きるべきです。
そして、神様はこう言われました。
ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。(13)
そのように、私たちが救われる前、私たちの人生は罪によって呪われていました。また、私たちの罪によって周りの人々をも呪っていました。
しかし、神様が私たちを救われたことによって、私たちは周りの人々に祝福をもたらす存在になります。神様は同じ約束をアブラハムにも与えられました。
地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記15:3)
神様は私たちにも同じことを望まれます。それゆえ、神様はこう言われました。
これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行なえ。互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。
これらはみな、わたしが憎むからだ。――主の御告げ――」(16-17)
つまり、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マルコ12:31)
そうすれば、周りの人々は私たちに引き付けられ、神様にも引き付けられるでしょう。
最後にゼカリヤはこう言いました。
「多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」万軍の主はこう仰せられる。
「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、「私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ」と言う。」(22-23)
いつか、すべての人がユダヤ人についてこう言うでしょう。 しかし、日ごとに人々が私たちについても同じことを言うようになりますように。
「私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられると聞いたからです。」
