この箇所では、ゼカリヤはイスラエルの救いについて話し続けます。しかし、この箇所を読むと、この言葉は私の心を打ちます。
主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。(ゼカリヤ書10:1)
わたしは雄やぎを罰しよう。万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。(3)
わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。(6)
わたしは彼らに合図して、彼らを集める。わたしが彼らを贖ったからだ。(8)
彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。――主の御告げ―― (12)
つまり、私たちの祝福のすべては神様から来ます。
神様から雨や作物が来ます。(1)
神様は悪いリーダー(つまり、雄やぎ)を罰し、ご自分の民を世話してくださいます。(3)
神様は私たちを強め、救い、癒してくださいます。私たちが呼ぶ時、神様は応えてくださいます。(6)
神様は私たちを呼び、集め、贖ってくださいます。(8)
神様の力と名前によって、私たちはこの世に恐れずに歩き回ることができます。(12)
どうして、神様は私たちをそのように祝福してくださるのでしょうか。私たちが良い人だからでしょうか。違います。神様の恵みによって、祝福してくださいます。
私たちのすべては、神様から来ます。私たちのすべては神様の恵みによって与えられたのです。
