この箇所で、私たちはイスラエルの将来を少し見ることができます。
あるクリスチャンは、神様がイスラエルをもう捨てられたのだと思っています。つまり、神様の全ての約束はイスラエルのためではなく、教会のためだというのです。
けれども、その考え方は間違っていると思います。パウロはイスラエルについてこう書きました。
彼らは。。。選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:28-29)
そして、ゼカリヤの預言によれば、ある日、神様はイスラエル人の目を開けてくださいます。
最後の日、周りの国々はイスラエルを滅ぼそうとし、エルサレムを攻撃します。しかし、神様はこう言われました。
わたしはエルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする。。。
その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。。。(ゼカリヤ書12:2-3)
イスラエル人が、神様が自分たちを守っていることを目の当たりにするとき、彼らはこう言うでしょう。
エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある、と。(5)
そして、彼らが神様の救いを見るとき、もう一つのことが分かるようになります。つまり、彼らが待ち望んでいた救い主は、すでに来ていたということです。けれども、約2000年前に、彼らは自分たちの手でその救い主を殺してしまいました。
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。
彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(10)
その日、すべてのイスラエル人はイエス様をメシアとして、つまり救い主として認めます。そして、すべてのイスラエル人は救われます。(ローマ11:26)
この箇所を読むと、神様の恵みの不思議さに心を打たれます。イスラエル人が神様を求めなくても、(もしくは間違った場所で神様を求めても)、彼らは神様を見つけます。
なぜでしょうか。彼らは神様の愛に値しているわけではなく、他の国民よりも優れているわけでもありません。むしろ、神様の愛と憐れみによって、彼らは神様を見つけ、救われます。
同じように、私たちの霊的な目が開かれ、私たちが悔い改めるために、神様は恵みと哀願の霊を私たちの上に注いでくださいます。そして、私たちが救い主イエス様を見るとき、ユダヤ人と同じように私たちも救われます。
おどろくばかりの神の恵み。
なんて麗しい響きでしょう。神のすばらしい恵みによって、
こんな惨めな私が救われたのです。かつて、私は迷って混乱していましたが、
神様は私を見つけてくださいました。かつて、私は何も見えませんでしたが、
今、私には見えるのです。
