ユダヤ人は城壁の修理を完成した後、レビ記23章で神様が命じられたように、ラッパの祭りを祝いました。
その日、祭司エズラはユダヤ人に神様の律法の書を読みました。この箇所を読んだ時、いくつかのことが私の心に響きました。
一つ目は、彼らが神様を恐れ、その言葉を尊重したことです。エズラが律法の書を開いた時、ユダヤ人は皆立ち上がりました。そして、エズラが読み上げている間、彼らは注意深く聞きました。
また、エズラが神様をほめたたえた時、彼らは「手を上げながら、『アーメン、アーメン』と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝しました。」(ネヘミヤ記8:6)
私たちは神様をどれほど深く恐れているでしょうか。私たちは神様の言葉をどれくらい尊重しているでしょうか。
神様の前に来る時、へりくだる心を持っているでしょうか。私たちは注意深く神様の言葉に耳を傾けているでしょうか。それとも、すぐに心が他のことへと逸れてしまうでしょうか。
二つ目は、私たちには聖書を上手に教える人が必要だということです。8節にはこう書かれています。
彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。(ネヘミヤ記8:8)
現代においても、教会にはそのような人が必要です。つまり、聖書をはっきりと読んで、人々が理解できるように説明できる人が必要です。
三つ目は、ユダヤ人の反応です。彼らは神様の言葉を聞くと、すぐに泣きました。なぜなら、彼らは神様の律法を犯したことを知ったからです。また、彼らの苦しみは自分たちのせいであることを悟りました。
神様が私たちの罪を示されたら、私たちはどのように反応するでしょうか。私たちは泣いて、悔い改めるでしょうか。それとも、私たちの心はさらに堅くなるでしょうか。
最後のポイントは、神様が私たちが自分の悲しみに浸ることを望んでおられないということです。むしろ、神様は私たちが神様の喜びによって生きることを望んでおられます。ネヘミヤはユダヤ人にこう言いました。
悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。(10)
9-10章は、彼らが悔い改める時間でした。けれども、8章では、神様は彼らの失敗によって、悲しみに浸ることを望んでおられませんでした。むしろ、神様は彼らが神様の慈しみと忠実さを喜ぶことを望んでおられました。
私たちが罪を犯した時、へりくだって悔い改めるべきです。しかし、私たちの涙と後悔に浸らないようにしましょう。
むしろ、十字架を思い出し、イエス様が私たちの罰を受けてくださったことを思い出しましょう。神様の恵みと私たちの救いを思い出しましょう。そうすれば、私たちは神様の喜びをもう一度知ることができます。
私たちが自分の罪を悲しむだけのために、神様が聖書を与えたのではありません。私たちの喜びを取り去るために、聖書を与えたのでもありません。
神様が望んでおられるのは、私たちが神様と親しい関係を持ち、神様の愛と喜びを知ることです。イエス様はこう言われました。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15:10-11)
