あなたはこのタイトルを見て、「私は祭司じゃない。この箇所は私には無関係だ」と思うかもしれません。
けれども、もしあなたがクリスチャンであるならば、あなたは神様の祭司です。ペテロは私たちについて次のように語りました。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。
それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(第一ペテロ2:9)
だから、クリスチャンとして、マラキ書2章は私たちにも深く関連があります。
この箇所で、神様は祭司たちを責められました。なぜなら、彼らは神様から与えられた務めを忠実に果たしていなかったからです。
しかし、他のユダヤ人と同様に、彼らの最大の問題は、自分の人生で神様を敬わなかったことにありました。
それにもかかわらず、彼らは祭司であったため、神様は特に厳しく彼らを責められました。祭司として、彼らには他のユダヤ人よりも大きな責任があったのです。
その中で、神様は祭司たちと結んだ契約について語られました。その契約は「いのちと平和である」契約でした。(申命記25:12-13)
そして、神様は彼らにこう言われました。
わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた。
彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた。
祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼は万軍の主の使いであるからだ。(マラキ書2:5-7)
神様の祭司として、神様は私たちに何を求めておられるのでしょうか。神様は私たちにその答えをはっきりと教えてくださいます。
まず第一に、私たちは神様を恐れ、神様の名前におののくべきだということです。つまり、私たちは神様を深く敬うべきなのです。
確かに、神様は私たちを友と呼んでくださいますが、神様は私たちの友達だけではありません。昨日のブログで述べたように、神様は私たちの王であり主でもあります。
クリスチャンの牧師ゴードン・マクドナルドはこう語りました。「私が少しでも神様を恐れることをやめた時、最悪の罪を犯してしまいました。」
神様の祭司として、私たちはそのようになってはいけません。
第二に、私たちは平和と公正のうちに神様と共に歩むべきだということです。このことは、第一のポイントから自然に導かれます。もし私たちが神様を深く敬うならば、平和と公正のうちに神様と共に歩むことができるでしょう。
残念ながら、マラキの時代の祭司たちはそうしませんでした。彼らは神様を恐れることをやめてしまったため、自分たちの要らなくなった足の不自由なものや病気のものをいけにえとして捧げました。
では、神様の祭司として、私たちの役割は何でしょうか。
それは、周りの人々に神様の道を教えることです。私たち自身がその道を歩むことで、周りの人々が私たちの生き方を通して神様を見ることができるようになるはずです。また、彼らが私たちを通じて神様の御教えを求めるようになるでしょう。
けれども、私たちが神様を深く敬わなければ、彼らはそのようにはしないでしょう。
さらに、私たちの唇は神様の言葉を守るべきです。
ただし、私たちが神様の言葉を知らなければ、そうすることはできません。だからこそ、私たちは神様の言葉を学び続ける必要があります。その結果、私たちは知っていることを周りの人々と分かち合うことができます。
この役割は牧師だけのものではありません。あなたも神様の祭司ですから、それはあなた自身の役割でもあります。
そして、私たちは周りの人々を罪から立ち返らせるべきです。彼らが罪に陥り、悪い道を進んでいる時、私たちはそれを見て見ぬふりをしてはなりません。私たちは彼らに警告を与えるべきです。
彼らがその警告を受け入れるかどうかは分かりません。場合によっては無視されるかもしれません。それでも、神様は私たちが彼らに警告を与えることを命じておられます。(エゼキエル記33:7-9)
マラキの時代の祭司たちは大いに失敗しました。彼らはユダヤ人を罪から立ち返らせず、神様の道を教えませんでした。むしろ、彼らの教えによってユダヤ人はつまずいてしまいました。
さて、あなた自身はどうでしょうか。あなたはどのような祭司でしょうか。
