このブログを見た時、「どうして十一献金について書いているのだろう。それは旧約聖書の律法であり、新約聖書にはクリスチャンが十一献金を捧げるべきだとは書かれていない」と考える人もいるかもしれません。
それは確かにその通りです。マラキがイスラエルの民に語った際、彼が話していたのはモーセの律法の下にいる人々でした。
時折、人々はアブラハムがメルキゼデクに十一献金を捧げた出来事を指摘します。
彼らの主張は、ヘブル人への手紙によれば、メルキゼデクがイエス様の象徴であり、さらにアブラハムがモーセの律法以前に十一献金を捧げたことから、クリスチャンも十一献金を捧げるべきだということです。
もしヘブル人への手紙の著者が、クリスチャンが十一献金を捧げるべきだという主張をしているのなら、私はその考えを受け入れるでしょう。
しかし、著者の主張は実際には、イエス様の祭司職がアロンの祭司職よりも優れているという点にあります。
したがって、この箇所を根拠にして「クリスチャンは十一献金を捧げるべきだ」と言うのは少し行き過ぎた解釈だと思います。
それでも、この箇所から献金についての原則を学ぶことができます。この原則はクリスチャンにも適用されます。
第一に、神様はクリスチャンに教会を献金で支えるように命じています。特に私たちの牧師を献金で支えることが求められています。
前述したように、ネヘミヤの時代、イスラエルの民がレビ人を支えなかったため、レビ人は主の宮での務めを諦めざるを得ませんでした。自分の家族を養うために、彼らは田畑に戻り働かなければならなかったのです。
もし私たちの牧師が家族を支えるためにアルバイトをしなければならない状況に置かれるなら、どうなるでしょうか。牧師は疲れ果て、その家族も疲弊するでしょう。
そして牧師が教会の務めに集中できない結果として、私たちも影響を受けることになります。
だからこそ、パウロはこう言いました。
よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。
聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。(第一テモテ5:17-18)
それは新約聖書の教えです。
さらに、第一コリント9:7-12によれば、パウロとバルナバは自分たちのミニストリーのために報酬を受け取ることをしませんでした。むしろ、彼らは別の仕事をして自分自身を支えました。
それでも、パウロが主張したのは、「私たちはミニストリーの働きのために給料を受け取る権利を持っている」ということです。
それゆえ、マラキ書では神様がイスラエルの民に次のように言われました。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。(マラキ書3:10)
その食べ物は神様のためではありません。神様は食べ物を必要とされないからです。それは、宮で働いていた祭司たちとレビ人たちのためのものでした。
もう一つ重要なポイントがあります。時々、クリスチャンはこう言います。「これは私のお金です。だから、もし十一献金が神様の命令でないなら、私は教会に何も与えません。」
しかし、心に留めてください。クリスチャンであるあなたの人生は神様のものです。あなたは、イエス様が代価を払って買い取られた者です。その代価は十字架で流されたイエス様の尊い血です。
だから、あなたの持ち物は、実のところキリストのものです。あなたはイエス様から託された管理人です。
つまり、あなたのお金はあなた自身のものではありません。それは神様のものです。
タレントのたとえ話(マタイ25:14-30)から、その真理を学ぶことができます。
多くのクリスチャンがこの話を読むとき、霊的な賜物について考えます。けれども、神様は私たちにお金を儲ける能力も与えてくださっています。だから、私たちがそのお金をどのように使うのかを神様は問われます。
イスラエルの民がその真理を思い出すために、神様は彼らに悪い作物を与えられました。そして、神様は彼らにこう言われました。
「あなたたちは私のものを取り、それをただ自分自身のために使っています。だから、あなたたちは苦しんでいる。
しかし、もしあなたたちがそのものが本当に私に属することを覚えていたなら、私はあふれるばかりの祝福をあなたたちに注いでいたことでしょう。」
あなたはどうですか。あなたは自分のお金があなた自身に属すると考えていますか。ただ自分の目的のために使っていますか。
あなたが誰に属しているかを思い出しましょう。そして、あなたのお金が神様に属していることを心に留めましょう。
10%が神様のものなのではありません。100%が神様のものです。
そのお金を神様の目的のために使っていますか。
