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マラキ書

虚しい?

マラキ書3:13-18

神様に従う私たちの信仰の旅路において、失望を感じる時もあります。そのような時に注意しなければ、私たちは苦々しくなり、皮肉な態度を取ってしまうかもしれません。

イスラエルの民も同じようになりました。彼らは次のように言いました。

神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。

今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。(マラキ書3:14-15)

彼らは、神様が求められたことを行っていたと思ったかもしれません。彼らは安息日に主の宮に行き、いけにえを捧げ、モーセの律法によって定められた祭りを祝いました。

けれども、彼らは神様の祝福を見ることができませんでした。むしろ、神様に従わない人々が繁栄するのを目の当たりにしました。

だから、彼らはこう言いました。「神様に従うことに何の利益があるだろうか。神様に仕えることは虚しい。」

しかし、彼らの問題の一部は、さまざまな宗教的な行いをしても、それらを心から行っていなかったということです。以前、私たちが読んだように、彼らは足のなえたものや病気の動物をいけにえとして捧げました。

それに、神様のすべての命令に従うのではなく、どの命令に従うかを選んでいました。だから、十一献金をきちんと捧げませんでしたし、多くの指導者たちは偶像礼拝する外国人と結婚してしまいました。

それにもかかわらず、彼らは図々しくこう言いました。「あなたが命じた通りに私たちはしたのに、なぜあなたは私たちを祝福してくださらないのですか。」

私たちも同じようなことをするでしょうか。正しいことをしているつもりでも、それを心からしていない。「神様に従っている」と言いながら、実際にはどの命令に従うかを自分で選んでいます。

それでも、「なぜ神様が私を祝福してくださらないのでしょうか」と不満を口にします。

とはいえ、時には、私たちが本当に心から神様に従っているのに、まだ神様の祝福を感じられないこともあります。だから、私たちは「どうして?」と尋ねます。その時、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。

「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる――

わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。(16-18)

つまり、「私はあなたを見て思い出します。私に忠実に仕える者は、私の宝となります。裁きの日には、彼らは恥じることなく私の前に立つことができます。その一方、不実な者は裁かれるでしょう。」

私たちががっかりしてしまう時には、どうすれば良いでしょうか。苦々しく皮肉な者にならないためには、何をすべきでしょうか。

おそらく、最も重要なことは、クリスチャンとの交わりを大切にすることです。あなたの感情を兄弟姉妹と分かち合いましょう。フラストレーションをシェアし、彼らの意見に耳を傾けてみてください。

彼らは、あなたの不実な部分を指摘するかもしれません。また、彼らはあなたを励ますかもしれません。そして、神様の忠実さや将来の報いを思い出させてくれるかもしれません。

けれども、私たちの苦々しく皮肉な思いが、私たちを神様から引き離すことのないようにしましょう。むしろ、イエスに目を留め、最後まで従い続けましょう。

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