ある牧師が言いました。「聖さは完全という意味です。」
つまり、私たちが聖い人生を生きるなら、私たちの人生は壊れずに、癒されて完全になります。なぜなら、私たちは神様が計画した通りに生きるからです。
昨日、私が言ったのは、人々が神様を拒絶すると、彼らの道徳観念は堕落するということです。しかし、この詩篇で、私たちは完全な人生がどんな人生であるかを学びます。どうして聖い人になることは大切なのでしょうか。
ダビデはその理由を与えます。
主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。(詩篇15:1)
つまり、すべての人々は神様の前に来ることができません。
へブル人への手紙の著者も、そのことをはっきりと言いました。
聖くなければ、だれも主を見ることができません。(12-14)
聖さとは、何でしょうか。
それは、正しく歩むことです。つまり、周りの人々は公正に罪のせいであなたを責めることができません。
もちろん、あなたを責めようとする人もいます。イエス様が罪のない方なのに、その敵はいつもイエス様を責めました。とはいえ、彼らは公正に責めることができなかった。
あなたはどうですか。周りの人々はあなたを罪のために公正に責めることができますか。
また、聖さは義を行なうことです。聖さは、悪いことを犯さないことだけではなく、良いことをすることです。ヤコブはこう書きました。
こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)
そして、聖さは、心の中の真実を語ることです。あなたは真実を愛しているでしょうか。それとも、嘘がすぐにあなたの口から出るでしょうか。
「罪のない嘘」はどうでしょうか。相手の感情を考えずに真実を言うべきというわけではありません。しかし、愛を持って真実を語るべきです。(エペソ4:15)
また、聖さは人をそしらないことです。あなたは、どれくらい人の悪口を言うでしょうか。例えば、どれくらいあなたの妻や夫、お客さんや同僚について文句を言うでしょうか。聖い人はそんなことをしません。
また、聖さは悪を犯す人を感心せずに、善を行なう人を感心することです。
あなたのロールモデルは誰でしょうか。神様を愛する人、また神様に仕える人のようになりたいでしょうか。それとも、神様を拒絶する人のようになりたいですか。
誰の価値観を受け入れるでしょうか。
そして、たとえ損になっても、聖い人は立てた誓いを変えません。自分にとって不利な条件でも、あなたは自分の約束を守るでしょうか。
さらに、聖い人は気前がよく、苦しんでいる人を喜んで助けます。彼らが困難な時に、その不運につけ込むでしょうか。それとも、神様の愛で彼らを包むでしょうか。
最後に、聖さは正直に生き、正義を愛することです。相手の立場を考えずに、神様の愛で彼らを扱うでしょうか。あなたには利益がないのに、彼らを正直に扱うでしょうか。
ダビデは、そのような人が完全になると言いました。またその人は決して揺るがない人となります。
あなたはどうですか。あなたは聖い人でしょうか。
良い知らせは、あなたがイエス様に属するなら、イエス様の血によってあなたが清められて、神様の目で見ると、あなたはもう完全だということです。あなたはもう聖い人です。
だから、裁きの日に、神様が私たちをご覧になる時、「無罪」と言われます。
それだけではなく、ペテロはこう記しました。
というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(第二べテロ1:3)
つまり、私たちは自分の力で自分自身を変える必要がないのです。むしろ、私たちが聖い人生を生きるために神様は力を与えてくださいます。
だから、毎日聖い人生を生きようと努めましょう。ペテロはこうも書いています。
こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。(第二ペテロ5:1-8)
