ダビデが困った時、つまり、人々が彼を殺そうとしたとき、彼は詩篇17篇を書きました。
何度も、人々はダビデを殺そうとしましたが、ダビデは決して彼らのレベルに降りませんでした。つまり、ダビデは彼らのようになることを拒絶しました。彼はこう書きました。
あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。あなたは私をためされましたが、何も見つけ出されません。
私は、口のあやまちをしまいと心がけました。人としての行ないについては、あなたのくちびるのことばによりました。
私は無法な者の道を避けました。私の歩みは、あなたの道を堅く守り、私の足はよろけませんでした。(詩篇17:3-5)
私たちは、よく、「私には選択肢などない。私を憎む人を扱うなら、ルールをちょっと曲げなくてはならない。そうしないと、彼は私をずっとひどく扱うことになるだろう。」と思います。
しかし、ダビデは神様の言葉に従い続け、復讐を神様の手に委ねました。彼は叫びました。
神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。
耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。あなたの奇しい恵みをお示しください。
立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。
私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。(6ー9)
そして私たちは、ダビデの最も深い望みを見ます。彼は言いました。
「主よ。私の敵はこの世の物を求めているので、その物をどうぞ与えてください。けれども、私が求めるのは、あなたの顔を見ることです。また、私は目覚める時、私があなたのようになるなら、満足します。」(14-15)
だから、神様はダビデについてこう言われました。「彼はわたしの心にかなった者です。」
私は若い時、この歌を聞いて、本当に気に入りました。
私が大きくなると、あなたのようになりたいです。
あなたが愛するように、私も愛することを学びたいです。周りの人々が微笑んで、私についてこう言ってほしいです。
「その人はきっと天の父の子です。」私は大きくなったら、あなたのようになりたいです。
神様は私たちのために同じことを望んでおられます。
パウロはこう書きました。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)
私たちの目的がこの世の物を得ることではなく、また、私たちを憎む人のようにならないようにしましょう。
むしろ、私たちは私たちを愛している天の父のようになることを目指しましょう。そうすれば、周りの人々が私たちを見ると、天の父を見ることができるでしょう。
