私は、よくダビデの詩篇の背景を知りたいです。時々、ある詩篇のタイトルで、その背景が書かれています。けれども、この詩篇では、その背景が書かれていません。
詩篇25篇で、ダビデはトラブルの中で神様に叫びました。彼はこう歌いました。
主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。
わが神。私は、あなたに信頼いたします。(詩篇25:1-2)
つまり、「私のすべてをあなたに捧げます。私のすべてはあなたのものです。あなたを信頼するから。」
その言葉を言うことは簡単です。とはいえ、その言葉を生きるのは難しいことです。私はよく神様に捧げたものを取り戻します。多くの場合、私は信仰を持たないので、神様を信頼しません。
けれども、私は失敗しても、ダビデのようにその言葉を叫びます。
そして、ダビデはこう祈りました。
主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。(4-5)
この箇所では、私たちはダビデの謙遜な態度を見ることができます。私たちはしばしば、すべてのことを知っているかのような態度を持ち、神様に相談する必要がないと思いがちです。
しかし、ダビデはへりくだって、神様に言いました。「私はすべてのことを知りません。最も良い道を知りません。だから教えてください。導いてください。」
どうしてダビデは神様の道を求めたのでしょうか。それは、ダビデが神様を愛し、神様を喜ばせたかったからです。だから彼は「あなたは救いの神です。私はあなたを待ち望みます。」と言いました。
そして、ダビデは請いました。
主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。
私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。。。
主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。(6-7,11)
ダビデはアブサロムから逃げた時、この言葉を書いたのでしょうか。もしそうなら、多分、バテ・シェバとの罪について考えたかもしれません。神様はダビデを赦されましたが、その罪は結局ダビデを追放に導きました。だから、ダビデは祈りました。
「私の咎は大きいけれども、どうか赦してください。
私はあなたの赦しに値しません。しかし、あなたの恵みとあわれみによって、どうか赦してください。」
多くの場合、私たちが振り返る時、私たちの罪は神様に赦されましたが、その罪が結局私たちのトラブルを起こしたことが分かります。その時、私たちは、「神様は本当に私を赦されたのだろうか。」と思います。
けれども、私たちが心から悔い改めたら、神様は私たちをきっと赦してくださいます。そして、私たちが赦しに値しないのに、裁きの日に、神様は私たちにあわれみを与えてくださいます。
それでも、神様は、この世における罪の結果を取り去らないかもしれません。しかし、ダビデの時と同じように、神様は私たちと共にいて、支えてくださいます。
だからダビデは歌いました。
主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。
主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。
主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。(8-10)
つまり、私たちが罪を犯しても、神様を求め続けたら、神様は私たちを決して諦めません。神様は私たちを導き続け、教え続けてくださいます。
もちろん、私たちはダビデと大きな違いがあります。それは、私たちがモーセの律法の下に生きていないことです。だから、私たちが罪を犯しても、神様の私たちに対する愛と忠実さは決して変わりません。
パウロはこう書きました。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)
そして、ダビデは神様の守りのために祈りました。
私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。
誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。(20-21)
だから、ダビデはこの詩篇を始めたように、この詩篇を終えます。彼は自分の魂を神様の御手に委ね、神様を待ち望みました。
試練の中で、私たちもそのようにしましょう。
