私たちは神様を恐れるなら、他の物を恐れる必要はありません。詩篇27篇で、その真理を見ることができます。
ダビデはこう歌いました。
主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。(詩篇27:1-3)
困った時、ダビデの最初の思いは、「神様!助けて!」ではありませんでした。むしろ、彼の最初の思いは、神様を求めることでした。また、救い主との交わりを慕いました。だから、彼はこう祈りました。
私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(4)
多くの場合、私たちは困った時に、「助けてください」と祈ります。けれども、ダビデが祈ったのは、「あなたを知りたいです。あなたを仰ぎます。あなたとの関係が欲しいです。」ということです。
どうして、彼はそう祈ったのでしょうか。なぜなら、自分自身を神様の手に委ねたら、神様が彼を守ってくださることを知っていたからです。ダビデはこう歌いました。
それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。(5-6)
私は8節が大好きです。
あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
神様は私たちを呼びます。「私の顔を慕い求めなさい。」
どれほど、私たちがそうしないことで心の中に平和がないでしょうか。むしろ、私たちは自分の問題に焦点を当てるので、圧倒されます。
もし、私たちがその問題に焦点を当てずに、神様に焦点を当てたら、どれほど私たちの人生は良くなるでしょうか。
他の人々は私たちを裏切ったり、がっかりさせたりするかもしれませんが、神様は決してそうされません。だから、ダビデは歌いました。
私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。(10)
そして、神様の導きと神様からの救いのために祈った後、ダビデはこれを宣言しました。
ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら――(13)
良い時に、「神様は良い方」と言うのは簡単なことです。けれども、悪い時に、どれほど私たちは神様が良い方であることを宣言するでしょうか。
ダビデは神様を見つめたので、辛い時でも、「神様は良い方」と言うことができました。
だから、ダビデは苦しんでいる人にこう言います。
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(14)
主よ。苦しむ時に、私があなたを待ち望むことを助けてください。私があなたが良い方であることを信じ続けることを助けてください。あなたが見えなくても、あなたの臨在を感じなくても、私があなたが私と一緒におられることを思い出すように。
私の一つの願いはあなたを知ることです。だから、あなたが呼ぶ時、私があなたの声を聞くことができるように。そして、私にあなたを求める心を与えてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。
