いつダビデが詩篇31篇を書いたか分かりませんが、サウルから逃げた時に書いたかもしれません。
私は21節を見ると、ダビデがケイラという町から逃げた時に(第一サムエル記23章)、この詩篇を書いたのかもしれないと思います。とは言え、それはただ私の意見に過ぎません。
私の心を打つのは、ダビデが神様の助けを請いながら、何回も神様に対する信頼を宣言するということです。
彼はこう言いました。
私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。
あなたは私を贖い出してくださいました。(詩篇31:5)
また、
しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」
私の時は、御手の中にあります。(14-15)
私たち皆、何かしら苦しむ時を経験します。その時、自分自身だけに信頼することは簡単なことです。私たちは自分の状況をコントロールしようとします。
しかし、生きようが死のうが、ダビデは自分の命を神様に委ねました。
彼はこう言いました。
「私の命はあなたの手にあります。周りの人々は私を殺そうとしていますが、あなたが私を生かし続けたいのであれば、彼らは成功しません。だからたとえ私が死ぬことになっても、自分の状況をコントロールしません。」
第一サムエルによれば、ダビデには自分の状況をコントロールする機会が二つありました。ダビデはサウルを殺す機会が二つありましたが、殺すことを拒絶しました。
イエス様は十字架で、その態度を示されました。つまり、イエス様は自分の命を天の父の手に委ねられました。
この詩篇はメシアについての詩篇ではありませんが、ダビデの言葉でイエス様の経験もよく見えます。
ダビデのように、イエス様は悲しみをよく知っておられました。苦しみもよく知っておられました。(10)
ダビデのように、イエス様は非難されました。(11)
ダビデのように、イエス様は友達に捨てられました。(11-12)
ダビデのように、人々はイエス様を謗って、殺そうと思いました。(13)
ダビデのように、イエス様は天の父に叫ばれました。「どうして、あなたは私をお見捨てになったのですか?」(22)
けれども、ダビデのように、イエス様は自分の状況をコントロールしようと思われませんでした。むしろ、自分の命を天の父の手に委ね、死ぬ前に言われました。「私の霊を御手にゆだねます。」(5)
イエス様が天の父に従われたので、今私たちには希望があります。その希望は、もし私たちが神様に信頼するなら、結局私たちは恥を見ない、ということです。(17)
また、神様が私たちに慈しみを与えてくださる希望があります。(19)
また、私たちの救いの希望があります。(22-23)
だから、ダビデのように叫びましょう。
雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。(24)
神様に心から信頼しましょう。
