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詩篇

本当の悔い改め

詩篇38ー39篇

ダビデがこの二つの詩篇を同時に書いたかどうか分からないけど、どちらも神様の懲らしめに対するダビデの反応を表しています。

その詩篇がいつ書かれたか分からないけど、ダビデが自分のプライドによってイスラエルの人口を数えた後に書いたものかもしれません。

詩篇29篇のように、この詩篇では、ダビデは罪を犯したので、神様の懲らしめによって、苦しんでいました。だから、彼は祈りました。

主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。

あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。

私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。

私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。

私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。(詩篇38:1-8)

詩篇38篇18節は私の心を打ちます。

私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。(詩篇38:18)

時々、人々は自分の罪を軽んじます。彼らは悔い改めの祈りを唱えるかもしれませんが、心の中ではあまり悲しんでいません。むしろ彼らは、「あ、私の足はちょっと汚れているから、拭いておこう。」という態度を取ります。

けれども、ダビデが罪を犯した時、彼は本当に不安になりました。そして、パウロのように、彼は心から叫びました、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(ローマ書7:24)

ダビデは自分の悪さを見て本当に悲しんでいたので、悔い改めました。それが本当の悔い改めです。

詩篇39篇で、私たちはダビデの反応をもっと見ます。その時、彼は苦しんでいましたが、最初は何も言いませんでした。なぜなら、悪者が彼を見ていて、ダビデの言葉によって神様に汚名を着せるかもしれないからです。(詩篇39:1-2)

つまり、もし悪者がダビデの罪の告白を聞いたら、神様の名前を汚すようなことを言うかもしれません。「この人は神様を愛していると言うのに、なぜこんな悪いことをするの?どんな神に従っているのだろうか。」と言うかもしれません。

また、もしダビデが神様の懲らしめについて文句を言ったら、その悪者は神様について間違ったイメージを持つかもしれません。

しかし、結局ダビデは叫びました。

主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。

ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。セラ

まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。(詩篇39:4-6)

この祈りでは、ダビデは自分の間違っている視点を告白しました。その視点によって彼は罪を犯しました。

もし、人口を数えた罪の後にこの詩篇を書いたなら、多分、ダビデが言っているのは「私の軍隊を強める努力はむなしかった。私の実績のためのプライドはむなしかった。」という事です。

ダビデは、それらが一時的なもので、すぐになくなることが分かるようになりました。

だから、ダビデは祈りました。

「私が正しい視点をもう忘れないように。私の命はむなしいものです。だから、私がもう一時的なものに焦点を当てないように助けてください。私がそんな罪をもう犯さないように。」

そして、彼は祈りました。

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:7)

言い換えれば、「私の希望は一時的なものから来ません。私の満足は一時的なものから来ません。これから、私の希望はあなたです。」

そして、ダビデは泣いて、神様の赦しを頼みました。だから、神様はダビデを赦してくださいました。ヨハネが言ったように、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

あなたはどうですか。あなたの罪のせいであなたの心は不安でしょうか。神様の懲らしめによって、あなたは一時的なものに背を向けて、永遠の物を求めるでしょうか。

ダビデのように、私たちは罪を捨てて、永遠の物、また、本当の命を与えるものを求めましょう。

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