詩篇41篇は、詩篇の第一巻の最後の歌です。(詩篇には、全部で5巻あります。)
ダビデは1節でこう書いています。
幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。(詩篇41:1)
イエス様はその言葉をこのように言い換えられました。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(マタイ5:7)
あわれみというのは、何でしょうか。二つのニュアンスがあります。
一つ目は、弱い人や、病気の人や、貧しい人に情けをかけることです。
二つ目は、罰に値する人を罰しないことです。
この詩篇では、私たちは両方の意味を見ることができます。
1-3節で、ダビデは、もしあなたが弱い人を憐れむなら、あなたが弱い時、神様があなたを憐れむと言います。
けれども、4節で、ダビデは叫びます。
主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。
ダビデのように、私たちはよく神様のあわれみを求めて祈ります。しかし、私たちは周りの人々をどれほどあわれんでいるでしょうか。
ダビデの敵のように、私たちは自分を傷つけた人々の悪口をどれほど言っているでしょうか。
彼らが苦しむ時、「それは当然です。その苦しみに値するから」と言ってしまうことはないでしょうか。
私たちはどれほど、彼らについて噂をし、彼らの過ちを大げさに言っているでしょうか。(5–9節)
また、友達が苦しんでいる時、ヨブの友達のように慰めることなく、責めてしまうことはないでしょうか。
「あなたは罪を犯したから、苦しんでいるのでしょう」と言ってしまうことはないでしょうか。
さらに、「もっと信仰を持てば、きっと癒されるでしょう」と言ってしまうことはないでしょうか。
ダビデにとっても、人をあわれむことは難しいことでした。詩篇の中で、ダビデは何回も自分の敵を責め、呪います。
皮肉なことに、この詩篇でも、ダビデはこう言います。
しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。私を立ち上がらせてください。そうすれば私は、彼らに仕返しができます。(10)
私たちはダビデの言葉を正当化する必要はありません。詩篇は感情の正直な表現です。けれども、覚えておきましょう。ダビデは自分の怒りとフラストレーションを詩篇で表しましたが、正義に基づいて行動しました。
私たちも怒りやフラストレーションを感じることがあるかもしれません。しかし、神様が私たちをあわれんでくださったように、私たちも人々をあわれまなくてはなりません。
そして、神様が私たちが弱い時に助けてくださったように、私たちも弱い人を助けなければなりません。(ローマ5:6-8)
あなたは周りの人々にどれくらいあわれみを示すでしょうか。
