詩篇45篇のタイトルは、「愛の歌」と書かれています。おそらく、この歌は王の結婚式で歌われました。
この歌は人間の王の結婚式のためのものでしたが、この歌から、王の王であるイエス様の結婚式も見ることができます。
私たちはキリストの花嫁と呼ばれます。この詩篇で、私たちの花婿であるイエス様を見ることができ、花嫁として私たちがイエス様にどう反応するべきかを知ることができます。
この詩篇の最初の部分は王について語ります。その言葉によって、イエス様のいろんな描写が見られます。例えば、イエス様は恵み深い方です。
あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。(詩篇45:2)
また、イエス様は勇士です。
雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。あなたの尊厳と威光を。
あなたの威光は、真理と柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め。あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。
あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。(3-5)
また、イエス様は私たちの王です。
神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。
あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。(6-7)
へブル人への手紙の著者は、イエス様について語る際に、詩篇45篇の6-7節を引用しました。(へブル1:8-9)
そして、詩人はキリストの花嫁である私たちに語りかけます。
娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。(10)
その言葉は創世記から来ます。神様は結婚についてこう言われました。
それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記2:24)
創世記の箇所は特に男性について話していますが、この詩篇によれば、女性もそうするべきです。
そのため、私たちはイエス様と結ばれるとき、キリストとの結びを邪魔するものを捨てなければなりません。
私はクリスチャンホームで育ちましたが、ある人はクリスチャンになると、その親たちと喧嘩します。また、ある人は、友達から離れなければならない。なぜなら、その友達が、その人を神様から引き離そうとするからです。
もちろん、それは極端な状態です。理想を言えば、私たちにはそのような必要はないと言いたいところです。私たちの証しによって彼らがキリストを求めるようになれば、それも理想的です。
けれども時々、私たちは「すみません。私はあなたが行く道を行くことができません。私はイエス様に従うからです。」と言わなければなりません。
そして、詩篇の著者は花嫁にこう言いました。
そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。(11)
それはどんな美しさでしょうか。体の美しさでしょうか。違います。ペテロはクリスチャンの妻たちにこう言いました。
むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。(第一ペテロ3:4)
私たち皆、そんな美しさが必要です。
また、イエス様が私たちの主なので、生涯イエス様を敬わなくてはなりません。
そして、詩人は歌います。
王の娘は奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織り合わされている。
彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、彼女に付き添うおとめらもあなたのもとに連れて来られよう。
喜びと楽しみをもって彼らは導かれ、王の宮殿に入って行く。(13-15)
どうして、花嫁には栄華があるでしょうか。それは、その王が彼女を選び、きれいな着物を着せ、美しくしたからです。
イエス様は私たちのために同じことをしてくださいました。イエス様は、
教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。
みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25-27)
私たちがそのような花嫁になるように。
