私はこの詩篇がいつ書かれたのか分かりません。もしかすると、神様の裁きによってイスラエルには飢饉があったのかもしれません。けれども、その後イスラエル人が悔い改めたので、もう一度神様の祝福を受けたのでしょう。
だから、詩人は神様のあわれみに感謝します。
神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。
祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。
咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。(詩篇65:1-4)
この個所で、詩人はイスラエルの罪と神様の裁きを思い出します。私は3節が大好きです。
咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
私たちは自分の罪に圧倒されました。私たちは神様の裁きから逃げられなかった。けれども、パウロが言ったように、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。」(ローマ5:8)
だから今、神様は私たちを近づけて、祝福を注いでくださいます。私たちはもう神様を恐れる必要がありません。むしろ、神様のあわれみと恵みを受けたので、愛で満たされた心で私たちは神様を仰ぎます。
そして、ある日、天国で私たち皆は神様のあわれみを賛美します。(1)
5節でダビデはこう言います。
私たちの救いの神よ。あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。
この詩篇の後半で、ダビデは神様の創造の力を思い出し、どうやって神様が雨を降らして、この世を支え、祝福することについて歌います。
けれども、この詩篇を読むとき、私はもう一つのことを見ます。それは私たちの救い主の業です。つまり、イエス様は私たちの罪のために死んでくださったので、この死にかけている世においても、私たちには希望があります。
神様がこの世を祝福するために天から雨を降らすように、神様は生ける水、つまり聖霊を私たちに注ぎ、毎日私たちを満たしてくださいます。
また御霊によって、神様は私たちと私たちが触れる人に恵みを注いでくださるので、私たちは豊かな実を結びます。
主よ、あなたが私に注いでくださった恵みを感謝します。その恵みによって私は救われました。私が自分自身を救う力がないとき、あなたは私を救ってくださいました。
今、あなたの聖霊で私を満たしてください。あなたの聖霊が私の人生にあふれ、私が実を結び、周りの人々に触れるように。
あなたが私の人生に注いでくださる喜びを感謝します。主イエスキリストのみ名によって祈ります。アーメン。
