ある聖書の学者たちは、この詩篇がヒゼキヤの時代に書かれたと考えています。すなわち、アッシリヤの王セナケリブの事件の後に書かれた可能性があります。その学者たちが正しいかどうかは分かりませんが、この詩篇はその話に関係があるようです。
詩篇76篇では、神様がイスラエルを敵から救い出してくださるために、詩人は賛美します。彼は歌います。
神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。
神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。
その所で神は弓につがえる火矢、盾と剣、また戦いを打ち砕かれた。セラ (詩篇76:1-3)
そして詩人は、どのように神様がエルサレムを攻撃しようとした人々を滅ぼしてくださったかを歌います。10節は本当に興味深いです。
まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ[る]。
どうすれば、人の憤りが神様をほめたたえるのでしょうか。
多分その意味は、人々が神様に対する怒りを抱き、神様と戦っても、最終的に神様が勝つので、神様の名前がほめたたえられるということです。
だから、セナケリブは神様の名前をからかい、エルサレムを攻撃しましたが、神様がその軍隊を滅ぼされたので、イスラエル人は神様をほめたたえました。
また、パロは「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない」と言い、イスラエル人を迫害しましたが、神様がパロを低くされ、イスラエル人を自由にされたので、周りの国々は神様の名前を恐れました。
だから、この詩篇を読む時、慰めと警告の両方があります。私たちが神様の手の中で休めば、神様は私たちを守り、助けてくださいます。しかし、神様に背くと、私たちは裁かれます。
とはいえ、私たちがどう選択しても、神様の名前はほめたたえられます。だから、パウロはこう書きました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10-11)
だから、私たちは自分自身にこう訊かなくてはなりません。感謝と愛を持って、そのことを告白するのでしょうか。それとも、憤りを持って、苦々しい心からそう告白するのでしょうか。
