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詩篇

悔い改めとあわれみ

詩篇85篇

詩篇85篇がいつ書かれたか誰も知りませんが、多分イスラエル人がバビロンへの追放の後に書かれたものだと思われます。

詩人はこう書きました。

主よ。あなたは御国に恵みを施し、ヤコブの繁栄を元どおりにされました。

あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。セラ

あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。(詩篇85:1-3)

イスラエル人がバビロンに70年いた後で、神様は彼らをエルサレムに帰らせました。多分、詩人はこの箇所でそのことについて歌ったのでしょう。

それでも、イスラエル人はまだトラブルを抱えていました。だから、詩人は願います。

われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。

あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。(詩篇85:4-7)

なぜ、詩人はそう祈ったのでしょうか。ネヘミヤ記によれば、ユダヤ人がエルサレムに帰ったけれど、城壁はまだ崩れていたので、彼らの敵はいつも攻撃しました。だからユダヤ人の人生は本当に大変でした。

だから、詩人は神様のあわれみを願います。そして、詩人は本当に大切なことを言います。

私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。

まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。(詩篇85:8-9)

私たちはよく神様のあわれみのために祈りますが、平和は悔い改める人のためであることを覚えておきましょう。

もし、私たちが神様に背を向け、私たちを滅ぼした罪に戻るなら、神様のあわれみを期待できません。

もちろん、神様が私たちが完全な人になるまであわれんでくださらないわけではありません。とはいえ、神様は私たちの心を望まれます。神様は、私たちが古い道を行かずに、神様の道を歩み始めることを見たいと望まれます。

たまに私が転ぶかもしれませんが、神様の道を行き続けるなら、神様は私たちを拾って、私たちを導き続けてくださいます。そして、私たちは神様の祝福を知ることができます。

だから、詩人はこう書きました。

まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。

義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。(詩篇85:12-13)

あなたはどうですか。悔い改めの道を歩んでいますか。

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