モーセの人生について書いた時、私は詩篇90篇について書きましたが、そのブログを読んだ後で、もう少し書きたいと思いました。
この詩篇では、モーセは人間の短い寿命を神様の永遠さと比べます。
主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。(詩篇90:1)
1節では、神様の永遠さを見ることができます。世代が行ったり来たりするけれど、神様は決して変わりません。神様は最初からおられたし、いつまでもおられます。
それに、昔は神様がイスラエル人の住まいだったように、今でも神様は私たちの住まいです。
アブラハムとイサクとヤコブを見守った神様は、私たちも見守ってくださいます。ペテロとヤコブとヨハネと一緒に歩んだ神様は、私たちとともに歩んでくださいます。
神様はその人たちが生まれる前からおられ、時間が始まる前にもおられました。だから、モーセはこう言いました。
山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。(2)
しかし、私たちの寿命は息のようです。モーセはこう書きました。
あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」
まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。
あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。
朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。(3-6)
私はそのことが想像できません。もし80歳まで生きるなら、私の人生はもう半分以上終わりました。
今まで、私はいろんなことを経験しました。たくさんの喜びを経験したし、いろんな苦しみを経験したし、たくさんの勝利を経験したし、多くの失敗を経験しました。
けれども、私の人生は海の水玉のようです。実は、私の人生はそこまでさえも大きくないのです。
しかし、いつか私たちは神様の前で、どうやってこの人生を生きたかの申し開きをしなければならない。私たちの人生は短いけど、神様からのたまものです。だから私たちはどうやって生きているのでしょうか。
多くの人々はこの世の快楽のために生きるので、罪深い人生を生きます。けれども、モーセはこう記しました。
なたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。(8)
つまり、神様は私たちの罪を見るので、その罪のために私たちを裁きます。私たちは誰も知らないと思うかもしれませんが、結局その罪は暴露され、裁かれます。
だから、モーセはこう記しました。
だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。(11)
私たちはいつも神様の愛について話しますが、神様を恐れることも覚えていなければなりません。神様は罪を憎むので、罪人を罰します。
神様はいきなり私たちをその罪のために殺さないかもしれませんが、神様が私たちの罪を気にしないと思わないでください。
神様は愛ですけど、神様は聖なる方です。だから、神様は私たちが聖なる人になることを望んでおられます。
だから、モーセはこう祈りました。
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(12)
また、本当の喜びがどこから来るか思い出して、モーセのように歌いましょう。
どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。(14)
そして、毎日、さらに毎秒を神様に捧げて、こう祈りましょう。
私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。
どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。(17)
アーメン。
