裁きか懲らしめか。私たちの人生に悪いことが起きる時、神様がそのどちらかをしているのではないかと、私たちは混乱することがあります。
だから、私たちが「神様が私を裁いて、罰している」と考えるのは簡単なことです。
けれども、神様はそのように考えておられるでしょうか。
詩篇94篇では、裁きと懲らしめの違いを見ることができます。裁きは神様を拒絶する人のためですが、懲らしめは神様の民のためです。
この詩篇の最初の部分では、詩人は神様が悪者を裁くように祈ります。
地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。
主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。(詩篇94:2-3)
そして、詩人は悪者の行動について話します。その人は「神様は私の罪を見ない」と思っています。
だから、詩人は彼らを責めます。
気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。
耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。
国々を戒める方が、お責めにならないだろうか。人に知識を教えるその方が。
主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。(8-11)
そして、彼らについて詩人はこう言います。
主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。(23)
けれども、神様の子供が罪を犯したら、神様はどうされるでしょうか。神様はどのようにその罪を扱われるでしょうか。
主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。
わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。
まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。(12-14)
この詩篇によって、私たちは神様の懲らしめについて二つのことを学びます。
一つ目は、神様は私たちの益のために懲らしめてくださるということです。神様は私たちを苦しませるために懲らしめるのではなく、私たちを苦しみから守るために懲らしめてくださいます。
二つ目は、私たちがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てないことです。
それに、神様は私たちを擁護してくださいます。詩人はこう歌いました。
だれが、私のために、悪を行なう者に向かって立ち上がるのでしょうか。だれが、私のために、不法を行なう者に向かって堅く立つのでしょうか。
もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。
もしも私が、「私の足はよろけています」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。
私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。(16-19)
つまり、悪者が私たちを攻める時、神様は私たちを擁護してくださいます。サタンが私たちを責める時、神様は私たちを擁護してくださいます。
だから、詩人はこう書きます。
彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。
しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。(21-22)
だから、神様の子供として、神様の裁きと神様の懲らしめを取り違えないようにしましょう。
私たちが罪を犯すと、神様は私たちを懲らしめてくださいます。しかし、それは私たちに損害を与えるためではなく、私たちの益のためです。
神様は私たちを滅ぼそうとは思っておられません。私たちを救いたいと望んでおられます。だから、覚えておきましょう。あなたがどんなに失敗しても、神様は私たちを決して見捨てません。
