私たちが神様の性格について考えるとき、たいてい「愛」という言葉がすぐに浮かぶでしょう。
もちろん、神様は愛です。 しかし、この箇所では、もう一つの面を見ることができます。 つまり、神様は聖なる方であるということです。
だから、詩篇97篇と99篇の最初の言葉は少し異なります。
詩篇97篇では、詩人は歌います。
主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(97:1)
けれども、99篇では、詩人はこう歌います。
主は王である。国々の民は恐れおののけ。
主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。(99:1)
どうして神様の前に私たちは恐れおののくのでしょうか。どうして、地は震えるのでしょうか。なぜなら、神様は聖なる方だけど、私たちはそうではないからです。
この詩篇では、詩人は何度も神様の聖さについて歌います。
国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。(3)
また、
われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。(5)
また、
われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。(9)
神様の聖さを見ると、何度も人々は神様を恐れ、平伏しました。モーセ(出エジプト記3:5-6)、イザヤ(イザヤ書6:5)、ヨハネ(黙示録1:17)はそうしました。
彼らは神様を見る資格がないことをよく知っていました。むしろ、彼らは自分の罪のために死に値することをよく知っていたのです。
けれども、何度も神様は彼らとイスラエル人にあわれみを与えてくださいました。
だから、詩人はそのあわれみについて歌います。
あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。(8)
イスラエル人は神様に信頼しそびれたのに、神様は彼らを決して捨てませんでした。彼らが罪を犯した時、神様は彼らを懲らしめられましたが、彼らを捨てずに、あわれんでくださいました。
それに、モーセや、アロンや、サムエルが不完全な人間なのに、彼らが神様に祈った時、神様は応えてくださいました。
ここでの良い知らせは、神様が私たちにもそのように扱ってくださることです。
神様は聖なる方で、私たちがそうではないのに、私たちを決して捨てません。私たちが何度も失敗しても、神様は私たちを赦し、私たちの祈りに答えてくださいます。
だから、神様の聖さとあわれみを覚えていて、毎日神様をほめたたえましょう。
