私が高校生の時、詩篇116篇にちなんだ歌を聴きました。その時から、この詩篇は私のお気に入りになりました。
そのソングライターはリビング・バイブルの訳を引用しました。
私は主を愛します。なぜなら、主は私の祈りに聞き、答えてくださるから。
主が私に耳を傾けられるので、私は生きる限り祈ります。(詩篇116:1-2)
なぜか、「主が私に耳を傾けられる」と言う言葉は私の心の中に響きます。
神様は私を愛しておられるので、私のすべての言葉を聞くために耳を傾けてくださいます。
そのことについて考える時、私は驚きます。
私には7歳の娘がいます。もちろん私の方が背が高いので、時々、私はちょっと低くして、彼女と話します。なぜなら、私が彼女の言葉を聞くのがもっと簡単になるし、彼女の目がちゃんと見えるからです。
神様は私たちのためにもそうしてくださいます。特に、私たちが暗闇の中にいる時に神様はそうしてくださいます。この詩篇では、詩人は自分のそんな時について歌います。
死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。
そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」(3-4)
そして、神様は憐れみと恵みによって、その詩人に触れられました。だから、詩人は歌います。
私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。(7)
けれども、この詩篇で私たちが学ぶのは、神様に従ったとしても、時々私たちは困難に直面することです。
詩人はこう書きました。
「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。(10)
パウロは、自分の試練について話した時、この詩篇を引用しました。彼はこう言いました。
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。
途方にくれていますが、行きづまることはありません。
迫害されていますが、見捨てられることはありません。
倒されますが、滅びません。(第二コリント4:8-9)
そして、彼はこう言いました。「私が福音のために苦しんでいても、イエス様の命は私たちを通して表れました。だから、私の周りの人々はその命を受けました。」(第二コリント4:10-12)
だから、パウロは詩人のように言いました。
「私は信じた。それゆえに語った。」(第二コリント4:13)
要するに、「私が福音を述べ伝えることができるなら、私は喜んで暗い時を通って、苦しみます。」
だから、パウロはこう言います。
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第二コリント4:16-18)
詩人も主からの救いを知ったので、永遠の物に照準を合わせ、主をほめたたえ、自分の人生を主に奉げました。彼は歌いました。
主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。
私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。
私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。(詩篇116:12-14)
神様は私たちの鎖も打ち砕いてくださいました。だから、心から主をほめたたえ、感謝のいけにえを捧げ、周りの人々に主が私たちのために何をしてくださったか伝えましょう。
そうすれば、彼らも暗闇から自由にされます。
