詩篇119篇を読む時、私は詩人の神様の御言葉に対する姿勢がよく見えます。
多くの人々は神様の御言葉を人を縛るものとして考えます。つまり、彼らは神様の御言葉が人生の楽しみを奪ってしまうと考えます。
「こうしなさい。こうするな。」
けれども、詩人はそのように考えませんでした。どうしてでしょうか。多分、彼には神様について正しい視点があったからです。彼はこう歌います。
主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。(詩篇119:41)
また、
主よ。地はあなたの恵みに満ちています。(64)
要するに、彼は神様が彼を愛し、彼の最善を望んでおられることを理解していました。また、この壊れた世界において、神様が彼の救いだと分かっていました。
だから、彼が神様の戒めを見る時、神様が彼の楽しみを取り去ろうとしておられるとは思いませんでした。むしろ、神様が彼に本当の命を与えようとしておられるのだと分かりました。
だから、彼はこう書きました。
そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。(45)
この詩人にとっては、神様の戒めは人々を縛らずに、人々を自由にするものです。どうしてでしょうか。
もし神様のデザインの通りに私たちがこの人生を生きたら、精一杯に生きるからです。
多くの人々はスマートフォンを持っています。しかし、彼らは説明書を読まないので、その機能を少ししか使いません。
けれども、その機能が分かれば、彼らの人生はもっと便利になります。彼らが今までできなかったことができるようになります。
そのように、聖書は人生の説明書です。聖書によって、私たちは神様がどのように人間をデザインされたか分かります。
そして、聖書に従うと、私たちは縛られず、むしろ、私たちは自由にされます。また、本当の命を見つけます。
それに、苦しみの時に、神様の御言葉は私たちを慰めてくださいます。なぜなら、聖書によって、私たちは神様を愛する人に対する神様の約束を読むからです。だから、この壊れた世に、私たちは希望を見つけます。
詩人はこう書きました。
どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。
これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。(49-50)
私の気にいる箇所はヨハネ14:1-3.イエス様は弟子たちにこう言われました。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
弟子たちが迫害と死に直面した時、その言葉によって慰められたと思います。この約束は私たちをも慰めます。
けれども、ちょっと考えてください。神様が良い方だと思いますか。神様があなたの最善を望んでおられると思いますか。
それなら、神様の御言葉はあなたを慰め、自由にします。
そうしないなら、多分あなたは神様の御言葉に対する詩人の熱心が理解できないでしょう。
あなたはどのように神様について考えているでしょうか。
