このブログで以前私は、詩篇119篇を書いた詩人が謙遜な心を持っていたと書きました。彼はすべてのことを知らないと認め、神様から学びたいと願っていました。
この箇所でも、その心が見えますし、神様に対する柔らかい心も見えます。
66節で、彼はもう一度「私に教えてください」と祈りましたが、67節で彼はこう言いました。
苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。
そして、71節で、彼はこう言います。
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
つまり、神様は彼を懲らしめられました。どのように彼が懲らしめられたか分かりませんが、私たちは彼の反応を知っています。彼は悔い改めたのです。
どうして彼は悔い改めたのでしょうか。なぜなら、彼は神様が良い方であり、神様が彼の最善を望んでおられることを信じたからです。だから、彼はこう歌いました。
なたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。(詩篇119:68)
悪者に関して、彼はこう歌いました。
彼らの心は脂肪のように鈍感です。(70a)
けれども、自分自身に関して、彼は歌いました。
しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。(70b)
そして、彼は祈ります。
どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。(80)
私たちの心は神様とその言葉に対してどれぐらい柔らかいでしょうか。
神様が私たちを懲らしめられる時、私たちは腹が立つでしょうか。もしくは、私たちはへりくだって、悔い改めるでしょうか。
