神様の私たちに対する愛と受け入れを、罪の許可と取り間違える人もいます。
彼らは「神様はもう私を受け入れてくださっているなら、どうして私は変わらなくてはならないだろうか。好きなように生きてもいいんじゃないか。」と思います。
しかし、この箇所によれば、知恵のある人は良い方向に変わる気持ちがあります。
この箇所は二つの招きで始まり、終わります。一つ目の招きは知恵から来ます。彼女は自分の家を整え、私たちが入るように招きます。彼女はこう言います。
「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と。
また、思慮に欠けた者に言う。「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、(箴言9:4-5)
多くの人々は自分の行動の結果を全く予測できません。彼らはどんなふうに生きても、すべてが何とかなってしまうと思います。けれども、彼らの道は痛みに導き、最終的には死に至ります。
だから、知恵は叫びます。「その道を行き続けないでください。あなたのわきまえのない道を捨ててください。私はより良い道を示します。その道は命に導きます。」
しかし、愚かな女はこう言います。
わきまえのない者はだれでもここに来なさい。。。盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい。(箴言9:16-17)
(知恵のように、ソロモンは愚かさを女性と比べています。もしまだ読んでいないなら、昨日の記事を読んでください。)
要するに、「どうぞ自分の道を生き続けてください。罪は甘いものですよ。罪はおいしいし、あなたを喜ばせるから。」
あなたはどんな人ですか。良い方向に変わる気がありますか。
もちろん、神様はあなたをありのままで愛しておられます。けれども、神様があなたを愛しておられるなら、あなたを泥に住むままには残したくないのです。
ソロモンはこう書きました。
あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。
あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。
知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。
正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。(箴言9:7-9)
イエス様はこのように言われました。
聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)
イエス様は犬や豚(つまり、あざける者)に聖なるものや真珠を与えてはならないと言われます。(その文化では、犬と豚には悪いイメージがありました。)なぜなら、彼らはその知恵に感謝せず、あなたを攻撃するからです。
けれども、知恵の真珠を知恵のある人に与えると、ソロモンは彼らがもっと賢くなると言います。
だから、私たちは自分自身にこう問うべきです。私たちは知恵のある人でしょうか。もしかしたら、私たちは犬や豚でしょうか。
人々があなたを戒めるなら、どうしますか。あなたはその言葉を反省するでしょうか。それとも反省せずにその言葉を拒絶するでしょうか。
あなたはへりくだって、人々からの戒めを受け入れられるでしょうか。それよりも、神様からの戒めを受け入れられるでしょうか。それをしてこそ、あなたは本当の知恵と命を見つけることができます。
だからソロモンはこう書きました。
主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。
わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。
もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ。
もし、あなたがこれをあざけるなら、あなただけが、その責任を負うことになる。(箴言9:10-12)
