もう箴言11章について書いたけど、もうちょっと24-30節を見たいと思います。
この箇所は人に恵みを与える喜びについてです。あなたが人々に恵みを与えるとき、もちろん彼らが祝福されるけど、あなたも祝福されます。ソロモンはこう書きました。
ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。(箴言11:24)
私たちは神様の恵みのパイプラインになるように呼ばれました。神様が私たちに恵みを与えてくださるとき、私たちはその恵みを周りの人々に与えるべきです。
そして私たちが周りの人々に恵みを与えるとき、神様がさらに私たちに恵みを与えるので、私たちはさらに周りの人々に恵みを与えることができます。
パウロはこの原則をこのように説明します。
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。。。
あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。(第二コリント9:8、11)
けれども、もし私たちが自分のお金にしがみつくと、その恵みのパイプラインは詰まってしまいます。
だから、私たちの周りの人々が祝福されないし、神様は私たちの人生に恵みを注がれなくなります。なぜなら、あなたのパイプラインが詰まっているので、神様の恵みはもう入れないからです。
その反面、ソロモンはこう言います。
おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。(25)
私たちは周りの人々に恵みを与えて、恵みのパイプラインになると、私たちも潤されます。
英語では、「Random acts of Kindness](ランダムな親切な行動)という表現があります。
例えば、ホームレスの人に出会ったら、あなたはその人にお金をあげる。また、あなたは花屋を見たら、急にあなたの友だちについて考えて、その友達に花を買ってあげます。
もちろんそれは良いことです。しかし、私は「意識して親切にする人」について聞きました。その人は周りの人々をよく見て、意識して「どうやってその人を祝福できるだろうか」と思います。
彼がすぐに分かってきたのは、人々を祝福するとき、彼も祝福されることです。キリストの愛が彼を通して流れて、人々に触れることを見るとき、彼は大喜びです。
どれくらい、私たちがけちなので、その喜びを経験する機会を失うでしょうか。私たちが神様のパイプラインになったら、どれくらい私たちは喜ぶでしょうか。
ソロモンはこう言いました。
穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。しかしそれを売る者の頭には祝福がある。(26)
どれくらい、私たちが恵みのパイプラインを詰めるので、私たちのクリスチャンの証は汚れるでしょうか。なぜなら、周りの人々は私たちを通してキリストの愛を見ずに、自己中心の人だけを見るからです。
あなたはどうですか。周りの人々があなたに出会うとき、彼らはキリストに出会うでしょうか。
30節で、ソロモンはこう言いました。
正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。(30)
人々は私たちに出会うとき、命に出会うはずです。もし神様の愛が私たちを通して流れるなら、彼らは命に出会います。その愛は彼らを私たちに近づけるだけではなく、神様に近づけます。
ソロモンは、「知恵のある者は人の心をとらえる」と言いました。けれども、神様の愛と恵みがあなたを通して流れないなら、神様のために人の心をとらえられないです。
私は何か認めなくてはなりません。私は何回もその恵みのパイプラインを詰めたことがあります。私も変わらなくてはなりません。あなたはどうですか。あなたは神様の恵みと愛のパイプラインでしょうか。
