今日はアグルという人の言葉を読みます。彼がどのような人物であるかは誰も知りませんが、彼の言葉は知恵と謙遜に満ちています。
1節の意味は少し曖昧です。多くの翻訳によれば、アグルはイティエルとウカルという人々に向かって話しています。
けれども、他の翻訳では、アグルはこう言っています。「私は疲れました。神様、私は本当に疲れ果てています。」
いずれにせよ、アグルは続けて語ります。
確かに、私は人間の中でも最も愚かで、私には人間の悟りがない。私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も知らない。(箴言30:2-3)
要するに、自分の弱さを認めて、アグルは神様の前に立ちました。彼のプライドは消え去りました。自分の力や知恵から生じるプライドはすべてなくなりました。
だからこそ、自分の弱さを認めたうえで、彼は神様を求めたのです。
4節で、彼はこう尋ねます。
だれが天に上り、また降りて来ただろうか。
だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。
その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。
つまり、「誰が天に行ったことがあるでしょうか。誰がそのような経験を持ち、私たちに神様について説明することができるでしょうか。」
さらに、「私たちの創造主は誰でしょうか。その子の名前は何でしょうか。」
実際、アグルは自分の創造主をすでに知っていました。7節で彼が神様に祈っていることからも、その創造主を知っていたことは明らかです。
けれども、興味深いことに、彼はその創造主の子の名前を尋ねました。その答えを彼は全く知らなかったのです。
しかし、イエス様がこの世に来た時、その答えを明らかにしてくださいました。そしてイエス様は、アグルや他の誰よりも、神様について明確に説明することがおできになりました。
ヨハネはこう記しています。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:18)
そして、アグルは私たちに、神様の言葉に耳を傾け、神様を私たちの避けどころとするように励まします。彼はこう言いました。
神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。
神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。(箴言30:5-6)
そして、彼は心からの素晴らしい祈りを捧げます。
二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。
不信実と偽りとを私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。
また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(箴言30:7-9)
つまり、「私は自分の言葉と行動を通して、あなたを敬いたいです。だから、私を罪から遠ざけてください。」
私たちもそのような心を持ちましょう。神様の前にへりくだり、神様を敬いましょう。
