この話では、私たちは18年間ほど時を飛ばします。イエス様は30歳になり、自分のミニストリーを始められました。けれども、彼が始める前に、イエス様のいとこバプテスマのヨハネは、すでに自分のミニストリーを始めていました。
使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが誰であるかを説明します。
神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)
祭司たちや、パリサイ人、サドカイ人(パリサイ人とサドカイ人はユダヤ人の宗派です)がヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、彼はこう答えました。
私はキリスト(つまり、メシア、または、救い主)ではありません。。。私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声です。(ヨハネ1:20,23)
彼の人生の目的は、人々の心をイエス様をメシアとして受け入れるために整えることでした。
私たちはイエス様の弟子として、神様から同じ使命を与えられています。私たちは周りの人々の心をイエス様のために整えるべきです。私たち自身には彼らを救う力はありません。ただ、神様の言葉という種を彼らの心にまくことができるだけです。
私たちのメッセージもヨハネのメッセージとほぼ同じです。
主な違いは、ヨハネの時代には神様からの救いがイエス様を通してまだ到来していなかったという点です。しかし、イエス様がすぐに来られるので、彼らは自分の心を準備しなくてはなりませんでした。(ルカ3:6)
一方で、私たちのメッセージは、イエス様を通して神様の救いがすでに到来したということです。
また、ヨハネの言葉を見ると、一つのことが私の心に深く響きます。ヨハネは率直に話しました。
パリサイ人とサドカイ人が来たとき、彼はこう言いました。
まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。
その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3:7-12)
どうしてヨハネはそんなに厳しく話したのでしょうか。それは、彼らが偽善者だったからです。彼らは神の律法を守ろうと努力しました。つまり、外面的には正しいことを行いましたが、心は堕落していました。
彼らはこう思っていました。「私はユダヤ人だから、神様に受け入れられているだろう。それに、神の律法を知らない多くのユダヤ人と違って、私はよく知っている。」
しかし、彼らの心がプライドに満ちていたため、神様のあわれみを知ることができませんでした。
一方で、ヨハネは他の人々に対してもっと優しく話しました。イスラエル人に嫌われていた人々(取税人やローマの兵士)にも優しく接しながら、「悔い改めなさい」と語りました。裁きの日が来るので、罪深い人生を続けてはいけなかったのです。
私たちも真理を伝えなければなりません。そのメッセージは厳しく感じられるかもしれませんが、伝えることが重要です。
私たちの王はやがてこの世にもう一度来られ、悪を裁き、すべてを癒してくださいます。
それは良い知らせですが、多くの人々は自分の中にある悪を認識していません。そして、その罪のゆえに、もし彼らが悔い改めず、心から王を歓迎し、自分の人生にその良い支配を受け入れないなら、彼らも裁かれてしまいます。
私たちはそのことについて警告すべきです。そうしなければ、神様は私たちに責任を負わせるでしょう。(エゼキエル書3:16-21;使徒の働き20:26-27)
あなたはどうですか。真理のすべてを語っているでしょうか。
