私たちがこの三つの箇所をまとめると、この話全体を理解することができると思います。
イエス様は会堂におられ、片手のなえた人をご覧になりました。同時に、イエス様はパリサイ人たちと律法学者たちの存在にも気づかれました。そして彼らは、イエス様がその人を安息日に癒やすかどうかをじっと見守っていました。(マルコ3:1-2)
イエス様は、彼らの思いをよく知っておられました。そのため、イエス様は片手のなえた人を呼ばれました。その時、そのリーダーたちはイエス様にこう尋ねました。
安息日にいやすのは正しいことでしょうか。(マタイ12:10)
イエス様は、いつものように、質問で答えられました。
あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。(ルカ6:9)
もちろん、そのリーダーたちはその質問に答えることができませんでした。
もし彼らが「安息日に善を行うのはだめです」または「命を救うのはだめです」と答えたなら、彼らは愚か者と見なされたでしょう。
しかし、もし彼らが「善を行ってもよいです。命を救ってもよいです。」と答えたなら、イエス様は「よし、この人を癒やします」と言われたことでしょう。
さらに、彼らはもちろん「悪を行うのは良いです」または「命を失うのは良いです」と全く言えませんでした。
そのため、彼らはずっと沈黙を守り続けました。英語のことわざには真理があると思います。「Better to remain silent and be thought a fool than to speak and to remove all doubt.」
つまり、「黙っていることで周りの人々に愚か者だと思われる方が、言葉によってそれがはっきり知られるよりも良いです。」ということです。
ルカはイエス様が彼らの答えを待っていたと記していますが、マルコはさらに詳しい情報を教えてくれます。
イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆き[ました。] (マルコ3:5)
だから、イエス様は、彼らにもう一つの質問を投げかけられました。
あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。(マタイ12:11-12)
つまり、「あなたは自分の羊を助けるでしょう。どちらの方が大切でしょうか。羊でしょうか、人間でしょうか。もし、人間の方が大切であるなら、どうして私が安息日に人を癒やすと、あなたたちは私を責めるのでしょうか。」
こうして、イエス様はご自身の疑問に答えられました。
それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。(マタイ12:12b)
そして、イエス様はその人を癒やされました。
この話には皮肉な点があります。イエス様は彼らに「安息日にしてよいのは、いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と尋ねられました。
そのリーダーたちは、この出来事の後、イエスをどのようにして殺すかを相談し始めました。彼らは安息日にそのことを考え始めたのです。(マルコ3:6)
けれども、もう一つのことが私の心に深く響きます。
イエス様は彼らの頑なな心をご覧になり、嘆かれました。彼らの伝統と律法主義的な考え方によって心が固くなりすぎていたため、神様の言葉と真理がその心を貫くことはできませんでした。
彼らは心の中で、自分たちが間違っていることに気づいて、沈黙しました。それでも、自分たちの間違いを認めることはありませんでした。
あなたはどうでしょうか。神様に対して頑なな心を持っていませんか。
もしかすると、あなたの行動や思いが間違っているために、神様が語りかけておられるのかもしれません。そして、その言葉を通して、自分の誤りに気づき、変わらなければならないと示されることもあります。
それでもなお、自分の間違った考えや罪にしがみついてしまうでしょうか。もしそうなら、あなたは神様を悲しませてしまうことになります。
なぜなら、神様はあなたの最善を望んでおられるからです。けれども、罪によってあなたは神様だけでなく、周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいます。
だから、あなたの心を開いてください。神様のみ言葉を受け入れてください。そして、私たちのために死なれたイエス様を悲しませることのないようにしましょう。むしろ、イエス様を喜ばせましょう。

One reply on “イエス様を悲しませる?”
[…] もしかしたら、彼らはこのことわざをもう一度思い出しました。「あなたが黙っていて、周りの人々にあなたが馬鹿者だと思われる方が、あなたの言葉によって、周りの人々があなたが馬鹿者だとはっきり分かるよりも良いです。」 […]
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