カテゴリー
マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:憐れみ

マタイの福音書5:7

数年前、私は不思議な夢を見ました。その夢の中で、私は中国でミニストリーの訓練を受けていました。(実際には、中国に行ったことはありません。)

すると、先生はこう言いました。「あなたたちは聖書をよく知っていますね。けれども、あなたたちは毎日その言葉に従っているでしょうか。」

そして、彼は憐れみについて話し始め、この箇所を引用しました。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

その言葉を聞いた瞬間、私は目を覚ましました。

「これはどういう意味なのだろうか。」と、私は思いました。

その夢を見たとき、私はハワイを旅行していました。そして、その夜、兄の教会に行き、礼拝が始まる前に、もう一度マタイの箇所を読みました。

賛美の時間の後、兄はヤコブの手紙からメッセージを語りました。そのテーマは何だったでしょうか。憐れみでした。

翌週の日曜日、私は自分の教会に戻りました。そして、牧師は再び憐れみについて語りました。

そのとき、私は思いました。「神様は私に憐れみについて学んでほしいのだろうか。」

そして、神様は私に憐れみについて教え始められました。

今でも私は憐れみについて学んでいます。本当は、「私は憐れみ深い人間です」と言いたいのですが、そうは言えません。まだまだ成長しなければならないのです。

イエス様はこう言われました。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。(5-7)

憐れみとは何でしょうか。

まず一つ目の意味は、人々を常に裁かないことです。つまり、私たちの基準や期待を押し付けるのをやめることです。

ある日、神様は私にこのことを教えられました。私が英会話の生徒を教えていたとき、彼らはなかなか上達していませんでした。そのため、私はフラストレーションを感じました。

「私は何度もこのことを教えたのに、どうして覚えていないのだろう。もう学んだはずなのに。なぜできないのか。」と私は思いました。(もちろん、口には出しませんでした。)

けれども、神様はこう語られました。 「ブルース、自分が立てた基準によって彼らを裁いてはいけません。あなたは、彼らが知っているはずだと思うかもしれませんが、彼らはまだ理解していません。

だから、批判するのをやめて、彼らのレベルを受け入れなさい。そして、彼らの英語学習の必要を理解し、その必要に応えられるように努めなさい。」

多くの場合、私たちは友人、配偶者、同僚、子どもが私たちの期待を満たさないと、彼らを批判してしまいます。

しかし、憐れみとは彼らを批判するのではなく、こう問いかけることです。 「彼らの本当の必要は何だろうか。どうすれば私はその必要に応えることができるだろうか。」

イエス様とパリサイ人の態度は大きく違いました。福音書の中で、イエス様は人々に仕えましたが、パリサイ人は人々を裁きました。

憐れみにはもう一つの側面があります。それは、人を許すことです。

多くの人は私たちの赦しに値しないかもしれません。決して謝らない人もいるでしょう。その結果、私たちの心には怒りや恨みが積み重なります。

英語の「resent」、つまり「恨み」という言葉の意味は、「再び感じる」です。私たちが恨みを持つとき、再び過去の傷を感じてしまいます。

恨みや苦々しい思いは、私たちを過去に縛り付けます。神様は私たちにそれを望まれていません。神様は私たちが恨みを手放し、神様の目的のために生きることを望まれます。

神様は私たちを素晴らしい目的のために造られました。しかし、恨みを持ち続けるなら、その目的を果たすことはできません。

それに、私たちは神様の憐れみに値しなかったにもかかわらず、神様は憐れみを注いでくださいました。同じように、私たちは値しない人々にも憐れみを与えるように呼ばれています。

イエス様は何度も言われました。 「もし神様の憐れみを望むなら、周りの人々に憐れみを示すべきです。」

この箇所でイエス様はそう教えられましたし、主の祈りでもそう教えられました。また、たとえ話の中でもそう語られました。

あなたはどうでしょうか。あなたは憐れみ深い人ですか。

コメントを残す