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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:全く新しい考え方

マタイの福音書5:1-12

あなたがこの箇所を読むなら、イエス様の考え方がこの世の考え方と全く違うことが分かると思います。

多くの人は、あなたが超宗教的な人であれば、神様があなたを祝福すると考えます。また、祝福されたいなら、特別な霊的な段階に至らなくてはならないと考えます。

しかし、イエス様はこう言われました。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(5:3)

つまり、神様は霊的に破産した人を祝福します。なぜなら、そんな人は恵みの必要性が分かるからです。その真実が分かれば、私たちは救われます。

世の人は、祝福される人とは、この世で幸福を見つける人だと思います。だから、彼らは「何か気持ちがいいなら、それをしろ」と言います。

しかし、イエス様はこう教えられます。「あなたの罪を嘆くなら、また、この世の罪による痛みを嘆くなら、あなたは祝福されます。」

なぜなら、私たちは私たちの人生とこの世を変えることのできるイエス様の力を見出すからです。

この世の人は、思い切って自分の人生とその状況をコントロールすれば祝福されると思います。

しかし、イエス様はこう語れます。「良い時でも悪い時でも、神様に従う人は祝福されます。」

つまり、私たちは神様の良さと判断を信頼するべきです。そうすれば、私たちの人生はうまくいくでしょう。

この世の人は、やりたい放題の人が祝福されると思います。彼らは、幸せを得るために、何でもします。

しかし、イエス様はこう言われました。

義に飢え渇く者は幸いです。(5:6)

正しい道はいつも簡単ではないし、いつも快楽的なものでもありません。けれども、それに従えば、あなたは満ち足ります。

この世の人々は、「自分のために生きなさい。自分の目的を果たすためなら、周りの人々を踏みつけても構わない」と言います。

しかし、イエス様はこう言われました。

あわれみ深い者は幸いです。(5:7)

つまり、周りの人々のニーズを自分のニーズよりも優先して考えてください。

特に、相手を許すときにそうするべきです。自分の痛みを脇に置き、あなたを傷つけた人の痛みとニーズに焦点を当てるのです。

そうすれば、私たちはイエス様のようになることができます。イエス様が十字架にかけられた時、このように祈られました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

この世の人々は、道徳的な価値観は相対的なものであると考えています。だから、他人の道徳的な価値観を裁くことができないと思います。彼らにとって、すべての人の道徳的な価値観は平等です。

しかし、イエス様はこう語れました。

心のきよい者は幸いです。(5:8)

つまり、神様の聖なるさを知る人だけが神様を見ます。

この世の人々は、「すべての道は天国に至ります。だから、周りの人々にイエス様のことについて話さなくてもいい。仏教や、神道や、ヒンズー教を信じても大丈夫です。」と考えます。

しかし、イエス様はこう言われます。「神様の使節として福音を宣べ伝えるは、神様の子供たちです。なぜなら、彼らは神様と人々を和解させるからです。

また、ケンカしている人を和解させる人は、その天の父のようになります。なぜなら、天の父は、私たちとの和解のために働かれたからです。」

この世の人々によれば、あなたが皆に好かれたら、あなたは祝福されています。

しかし、イエス様は私たちがすべての人々を喜ばせる必要はないと語れます。だから、周りの人々よりも、神様を喜ばせる態度を取るべきです。

神様の国には、この世のものとは全く異なる価値観があります。けれども、それを受け入れると、本当の命を知ります。

だから、パウロはこう言いました。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

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