前回の記事では、イエス様が殺人について話されました。今回は、イエス様は姦淫について話されています。イエス様がそのことについて話されたとき、その言葉は宗教的リーダーたちの良心を貫いたかもしれません。
私が以前述べたように、パリサイ人たちは、律法の具体的な部分を守り、それを誇りにしました。けれども、彼らはその律法の精神を見逃してしまいました。
一例として姦淫があります。パリサイ人たちの間にもさまざまな派閥が存在しました。例えば、「あざができたパリサイ人」と呼ばれる人たちがいました。(もちろん、この名前は侮辱として使われていました。)
「あざができた」パリサイ人たちは、情欲に対する懸念から、女性が通り過ぎるときに目を閉じました。ところが、目を閉じている間に、しばしば壁にぶつかってしまうことがありました。
また、あるパリサイ人たちは離婚について議論しました。モーセは律法でこう言っています。
人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ[る]。(申命記24:1)
パリサイ人たちは、「恥ずべき事」について議論しました。では、「恥ずべき事」とは何のことでしょうか。一部の人々は、「恥ずべき事」とは「不品行」という意味だと解釈しました。
一方、他のパリサイ人たちは、例えば妻がうるさかったり、料理を焦がしたりした場合、それも「恥ずべき事」に含まれると主張しました。
けれども、より深刻な問題が存在していたのではないでしょうか。それは、既婚のパリサイ人が不倫をしようと考え始めた時です。
ちょっと造像してみましょう。女性が通り過ぎるとき、そのパリサイ人は最初は情欲を避けようと目を閉じ、壁にぶつかることがあるかもしれません。
しかしその後、その女性をちらっと見てしまい、さらに振り返ってもう一度彼女を見てしまうかもしれません。
そして、やがて彼はずっとその女性のことを考えてしまい、関係を持ちたいと思い始めます。けれども、彼は既婚者で、こう考えるかもしれません。
「姦淫は罪だ。では、どうすればいいだろうか?あ、そうだ。妻と離婚して、あの女性と結婚すればいい。」
実際に、このように「正しい」とされるパリサイ人たちは、頻繁に離婚をしていました。
そのため、イエス様ははっきりと言われました。「あなたが婚外関係を持っていなくても、それだけで無罪とは言えません。」
つまり、
だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(5:28)
そして、恋人のために自分の妻と離婚しようかと考えたパリサイ人に、イエス様はこう言われました。
また「だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ」と言われています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。
また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)
つまり、もしあなたが結婚している間に、他の人に恋をし、その人と結婚するために妻や夫と離婚したら、神様の目にはそれが姦淫です。
あなたはどうでしょうか。心の中で姦淫を犯していないでしょうか。恋人と結婚しようと思い、そのために妻や夫と離婚しようと考えているでしょうか。
また、恋人が既に別の人と結婚しているのに、「離婚したら。。。」と勧めているでしょうか。それは姦淫です。そして、神様はそのような罪を裁かれます。
あなたは他の人と肉体関係を持っていないかもしれませんが、妻や夫と一体になっているでしょうか。それは肉体的な結びつきだけでなく、心の一致、霊の一致も含まれるべきです。
私たちが愛する方に忠実でありますように。神様に忠実であり続け、また妻や夫にも忠実でありますように。
