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マタイの福音書 マタイ5章

山上の説教:なんとしても

マタイの福音書5:29-30

私の一番好きなスポーツチームは、アメリカンフットボールのピッツバーグ・スティーラーズです。

1970年代にスティーラーズの監督が好んで使った標語は、「何としても」というものです。つまり、「何としても、勝たなければならない。」という意味でした。

イエス様にも、似たような態度がありました。けれども、イエス様は勝負について話されたのではありません。むしろ、罪について語られました。簡単に言えば、イエス様は「何としても、罪をあなたの人生から追い出しなさい。」と教えたのです。

イエス様はこう言われました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイの福音書5:29-30)

ある人々は、この言葉を文字通りに解釈しますが、それはイエス様が意図された意味ではありません。イエス様は、あなたが自分の目や手を捨てることを望まれているのではありません。

イエス様が意味されたのは、私たちが罪について真剣に考えるべきだということです。けれども、多くの場合、私たちは罪を軽く考えます。

私たちは、「大丈夫。神様は赦してくださる」と考えます。山上の垂訓でのイエス様の教えに反して、私たちは自分の罪を嘆きません。むしろ、悔い改めることなく罪を犯し続けます。

しかし、イエス様が十字架で死なれた理由は私たちの罪のためです。自分の罪のため、人々は地獄に行きます。イエス様に出会う前、私たちは自分の罪のために地獄に行くことに値していました。

どうして、私たちは自分の罪を軽く考え、悔い改めることなく罪を続けることができるでしょうか。

だからこそ、イエス様は「何としても、罪を捨てなさい」と教えます。では、どうやって罪を捨てることができるのでしょうか。

1.祈り。 私たちには、自分の力で罪に勝つことはできません。神様の力が必要です。

2.できるだけ誘惑を避けること。 例えば、アルコール依存の問題がある場合、バーなどに行かない方が良いでしょう。情欲の問題がある場合は、インターネットの利用に注意し、ポルノを販売している場所を避けるべきです。

3.クリスチャンの友人に問題を伝えること。 その人に祈りを頼み、時々その罪についてチェックしてもらうようにお願いするべきです。

ヤコブはこう書いています。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)

あなたの罪を軽く考えないでください。イエス様は決してそのようにはされませんでした。あなたの罪のために、イエス様は十字架で死なれたのです。

ですから、神様が聖であるように、あなたも聖でなければなりません。

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