山上の垂訓において、イエス様はしばしば私たちの心にあるものを指摘されます。
この箇所では、イエス様は、神様が私たちの行動だけでなく、私たちの動機も見ておられると教えます。
それゆえ、イエス様はこう教えます。
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(1)
そして、イエス様は三つの例を挙げられます。
一つ目は、施しをすることです。その時代、施しをするときに人々に認められたがる人がいました。彼らは、皆の前で貧しい人々にお金を渡しました。
けれども、イエス様は次のように言われました。「そうすれば、神様から報いを受けることはできません。あなたは神様からの報いを求めずに、周りの人々からの誉れを求めたからです。あなたは、すでに周りの人々から報いを受けました。」
次に、イエス様は祈りについて話されました。その時代、周りの人々を感動させるために、大きな声で長い祈りをする人がいました。おそらく、あなたも誰かの祈りを聞いたとき、その人が誰に祈っているのか疑問に思ったことがあるかもしれません。
最後に、イエス様は断食について話されました。断食するとき、自分がかわいそうだという顔をする人がいました。そのため、周りの人々は「あの人は断食している。本当に霊的な人だ」と思ったのです。
しかし、イエス様によれば、神様はそのような断食に対して報いを与えられません。むしろ、神様は周りの人々に見えない行動を褒められます。なぜなら、その行動は神様への愛のために行われたものだからです。
相手を批判するのは簡単なことですが、あなた自身はどうでしょうか。周りの人々があなたについてどう思うかを気にしていないでしょうか。あなたは、自分の霊的な人生を見せたがっているでしょうか。
それとも、あなたは本当に神様と周りの人々を愛しているでしょうか。
周りの人々をだますことはできても、神様をだますことはできません。ただ正しいことをするだけでは十分ではありません。正しい動機が必要なのです。
では、正しい動機とは何でしょうか。それは、神様に対する愛、そして周りの人々に対する愛です。神様の目には、他の理由はまったく重要ではありません。
神様に対する愛も、周りの人々に対する愛も、外に向かうものです。
けれども、私たちの焦点が内に向き、つまり周りの人々が私たちをどう見ているかばかりを考えるようになると、私たちの良い行いは神様の目には価値を失ってしまいます。
実を言うと、私も自分の動機についてよく戦っています。いつも自分自身に問いかけます。
「私は誰を喜ばせようとしているのだろうか。教会でメッセージをする時、私は自分の霊的さで人々を感動させようとしているのだろうか。それとも、神様が本当に私を通して話しておられるのだろうか。私は誰の歓心を買おうとしているのだろうか。」
あなたはどうでしょうか。誰を喜ばせようとしているでしょうか。あなたの動機は何でしょうか。
