私は、英語のブログでこの箇所について書いたのは4年前でした。その記事を読み返すと、本当に懐かしい気持ちになり、振り返ってみると、神様の良さを見ることができます。
その当時、私は強いフラストレーションを感じていました。家計は悪くはありませんでしたが、理想的な状態ではありませんでした。
また、より良い仕事の機会がありましたが、その面接の日が平日だったため、休暇を取る必要がありました。けれども、なぜか私が勤めていた派遣会社はその休暇のリクエストを断りました。そのため、私は「どうすればいいのだろう」と悩みました。
最終的に、神様の恵みによってその面接に行くことができました。派遣されていた中学校の教頭先生が助けてくださり、派遣会社を説得して私が面接に行けるようにしてくださいました。
その面接に合格し、今ではより良い学校で働いています。
では、この話とこの箇所がどのように関係しているのでしょうか。この箇所で私たちはこう祈ります。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)
正直に言うと、その朝、私は本当にストレスを感じていました。派遣会社が不公平だと思ったからです。(その以前、英語のブログ記事で、不公平な世界について書いたことがあったのに。)
以前も言った通り、私は自分の状況をコントロールすることはできませんでした。ただ、私の態度をコントロールすることだけはできました。とはいえ、それは非常に難しいことでした。
最終的に私はこう祈りました。「主よ、あなたの御心が天で行われるように地でも行われますように。天ではあなたの御心が完全に行われています。この地上でも、とりわけこの状況の中で、あなたの御心が完全に行われますように。
もし私がこの仕事を得ることがあなたの御心なら、それは素晴らしいことです。もしそうでないなら、私がそのことを受け入れられるように助けてください。」
さらに私は「御国が来ますように」という祈りも捧げました。
私にとってその仕事を得ることは非常に重要でした。しかし、それ以上に神様の御国は断然重要でした。
その時私が考えていたのは、「この仕事を得れば、もちろん給料が上がるけれど、一番大切なことは、時間が増えて、神の御国のためにもっと何かできるようになることです。」ということでした。
その日、私はこの箇所を読みましたが、6章の終わりまで読み続けました。なぜなら、この箇所でイエス様は「自分の命のことを心配したりしてはいけません」と言われたからです。
その日、私は本当にその言葉が必要でした。そして、この箇所の終わりでイエス様はこう言われました。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
今、振り返ると、イエス様はその約束を確かに守ってくださいました。
それにもかかわらず、私は今でも時々物事を心配してしまうことがあります。
それでも、神様の恵みによって、私は次のように祈ります。「私の人生において、またこの地上で、あなたの御国が来ますように。あなたの御心が行われますように。」
4年前、私はこう祈りました。
主よ。あなたは私のストレスをすべてご存じです。私の心配もすべてご存じです。でも、あなたはこの全地の主です。
あなたは私の雇い主の主です。そして、もっと大切なのは、あなたが私自身の主であるということです。
どうかあなたの御心が行われますように。私の仕事の状況で、あなたの御心が行われますように。私の将来においても、あなたの御心が行われますように。
私が何よりもあなたの御国に焦点を当てられるよう助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。
