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弟子づくり、霊的な教え、実用的な教え

イエス様が弟子を育てる際には、霊的な指示だけでなく、実用的な指示も教えられました。

まず、イエス様は弟子たちに霊的な真理を教え続けました。例えば、山上の垂訓や平地の説教を説かれました。また、数々のたとえ話を用いて教えられました。

けれども、弟子たちを奉仕に送り出す際には、実用的な指示も与えられました。

例えば、弟子たちはサマリヤ人や異邦人のところへ行かず、ユダヤ人の町だけを訪れるべきだと教えられました。それはなぜでしょうか。パウロが語ったように、福音は最初にユダヤ人に届けられるべきものだったからです。(ローマ1:16)

もちろん、イエス様は時々異邦人やサマリヤ人を癒し、教えることもされましたが、彼らに福音を伝える時期はまだ来ていなかったのです。

イエス様はさらに具体的な指示を弟子たちに与えられました。

イエス様は、弟子たちが何を持つべきか、持たないべきかを教えられました(マタイ10:9-10)。

また、彼らがどこに泊まるべきかを教えられました(マタイ10:11-13)。

さらに、彼らが拒絶される場合や迫害される場合の対処方法についても教えられました(マタイ10:14,23)。

そして、イエス様は弟子たちに厳しく警告されました。「信頼できない人もいるので注意しなさい。もちろん、悪を行うことは避けなさい。それでも、相手を賢く扱うように。」(マタイ10:16-17)

このように、イエス様は霊的な教えも並行して教え続けられました。

例えば、神様はスズメの必要を日々備えておられるので、弟子たちの必要も必ず備え、彼らを守られるということです。なぜなら、神様はスズメ以上に彼らを愛し、大切にしてくださるからです。そのため、彼らは神様を全面的に信頼すべきでした(マタイ10:9-10;29-31)。

また、彼らは神様を何よりも愛するべきだと教えられました。イエス様は弟子たちにこう語られました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:37-39)

私が伝えたいのはこれです。私たちが人々を奉仕のために訓練する際には、霊的なことと実用的なことの両方を教えるべきだということです。

もちろん、彼らはミニストリーや日常生活における霊的な原則を学ぶ必要があります。

しかし、それと同時に、彼らにどのようにミニストリーを行うべきかという実践的な側面も教える必要があります。

イエス様もそのようにされました。まず、弟子たちはイエス様がどのようにミニストリーを行うかを目の当たりにしました。そして、イエス様は必要な指示を簡潔に与え、弟子たちを送り出されました。

弟子たちが戻ると、イエス様は彼らの報告を聞き、必要に応じてフィードバックを与えられました。私たちも、同じようにして人々を訓練するべきではないでしょうか。

もちろん、彼らが私たちと全く同じようにミニストリーを行う必要はありません。私たちが基本的なことを教えた後は、その基礎の上に彼らが神様の導きに従って、自分のミニストリーを築いていくべきです。

けれども、残念なことに、多くの場合、訓練はどちらか片方に偏りがちです。

例えば、霊的な訓練だけを与える一方で、ミニストリーに関する実用的な訓練を与えない場合、その弟子は大きな失敗をし、そのミニストリーは早々に崩れてしまうことがあります。

逆に、ミニストリーに関する実用的な指導だけを与えると、最初は順調に見えても、弟子自身がプライド、罪、その他の霊的な落とし穴に陥り、結果的にそのミニストリーも崩壊してしまうことがあります。

ですから、弟子たちを訓練する際には、このような失敗を避けるべきです。霊的な訓練と実用的な訓練の両方を与えましょう。そうすることで、神様は彼らと私たちを用いて、神の国を成長させてくださるでしょう。

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畑になる毒草

この箇所を読むと、なぜかユダに目が向きます。

この箇所では、イエス様は弟子たちを呼び、イスラエル人に奉仕するために送り出されました。イエス様は彼らに、悪霊を追い出し、あらゆる病気と患いを癒す力を与えられました。けれども、彼らの最も重要な使命は福音を伝えることでした。

マタイは弟子たちの名前を挙げる際、最後にこう記します。「そして、イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」(マタイ10:4)

考えてみてください。ユダも悪霊を追い出しました。ユダも病人を癒しました。ユダも福音を伝えました。それなのに、最終的に彼はイエス様を裏切ったのです。

なぜユダは、これほど多くの素晴らしい働きをしながらも、イエス様を裏切ることになったのでしょうか。その理由を完全に理解するのは難しいです。

けれども、ユダはイエス様が語られた「畑にある毒麦」のたとえ話を象徴しているように思えます。(マタイ13:24-30; 36-42)

実際、毒麦と麦は見た目が非常によく似ています。そのため、農夫が毒麦を引き抜こうとすれば、誤って麦も引き抜いてしまう可能性がありました。そこで、農夫は収穫の時まで待つことにしました。その時になって初めて、麦と毒麦を分けました。

同じように、ユダは信者のように見えました。彼は他の弟子たちと共に学び、また他の弟子たちと同じように、悪霊を追い出し、人々を癒し、福音を伝えました。

それでも、彼は決して自分の心をイエス様に捧げることはありませんでした。

私のただの推測にすぎませんが、もしかすると、ユダは自分の利益のためにイエス様を利用しようと考えていたのかもしれません。

しかし、彼の目的とイエス様のビジョンが全く異なっていることに気づき、イエス様を利用できないと悟ったとき、彼はイエス様を裏切る道を選んだのです。

現代においても、教会の中にはそのような人々がいます。彼らはクリスチャンのように見え、クリスチャンのように聞こえます。中には奉仕をする人もいます。それでも、彼らの心は本当にイエス様に捧げられてはいません。

あなた自身はどうでしょうか。あなたの心はイエス様に捧げられていますか。あなたの人生は本当にイエス様のものでしょうか。それとも、ユダのように、あなたは畑の毒麦でしょうか。

表面的に信者のふりをすることはしないでください。牧師や教会の他のメンバーを欺くことはできるかもしれませんが、神様を欺くことはできません。そして、裁きの日には、あなたの本当の姿が明らかにされるでしょう。

その毒麦とならないように。あなたの心をイエス様に捧げましょう。信者のふりをして生きても、あなたの人生は虚しくなり、最終的には裁きを受けることになるのです。

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マタイの福音書 マタイ9章

収穫を見ている?

この箇所から、私たちはイエス様のミニストリーに関して学ぶことができます。

1.イエス様は出て行かれました。 イエス様は福音を述べ伝えるため、また病気の人や傷ついた人々に触れて癒すために、さまざまな場所に行かれました。

2.イエス様は見られました。 多くの場合、私たちは人々を見ていますが、彼らのことに本当に注目していません。私たちは自分の考えや計画に夢中になりすぎて、周囲の人々に気を留めることがありません。

また、私たちは彼らの外見に注目しがちです。見た目や行動を見ることはしますが、彼らの心の痛みや悲しみに目を向けません。しかし、イエス様はそのすべてに目を留められました。

3.イエス様は彼らを見て、かわいそうに思われました。 イエス様はただ行って見ただけではなく、人々を見るときには彼らをかわいそうに思われました。なぜなら、彼らを縛り付けるサタンの鎖を見られたからです。また、サタンが彼らを苦しめている様子を見られました。

彼らは弱り果てて倒れている羊のようで、迷っていて命の道をよく知らなかったため、イエス様は悲しまれました。

イエス様の弟子として、私たちはイエス様の態度を取るべきです。教会の外に行き、周囲の人々を見て、彼らを憐れむべきです。

イエス様は弟子たちにこう言われました。

収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(37-38)

この箇所を読むと、私はいつもある歌を思い出します。

See the fields,
畑を見てください。
Ripe and white as snow,
雪のように白くなって、刈り入れ時になっています。
Up from the seeds of faith we planted long ago.
それらは、昔蒔いた信仰の種から成長したものです。

So many the hearts in season,
今、収穫の時が来た心がたくさんあります。
With every prayer they’ve grown.
すべての祈りによって、その種が成長しました。
He has made them ready,
神様がその人々の心を整えてくださいました。
But we must bring them home.
しかし、私たちは彼らを刈り入れ、神様のもとに連れ帰らなければなりません。

Time like a free wind,
時間は自由な風のようで、
So quickly slips away.
すぐに過ぎ去ってしまいます。
Too soon today’s tomorrow,
今日の「明日」が、
Too soon a yesterday.
すぐに「昨日」になってしまいます。

So little time for the reaping,
収穫のための時間は短く、
And laborers are few,
労働者は少ないのです。
Lift your heads to the fields of white,
目を上げて、白くなった畑を見てください。
The work that we must do.
私たちがしなければならない仕事がそこにあります。

Lord of the Harvest,
収穫の主よ、
Place your fire in me.
私の心にあなたの炎を灯してください。
Servant you need now?
主よ、あなたは今、しもべを必要とされていますか。
Servant I will be.
私はそのしもべとなります。

Give me the eyes of your Spirit,
あなたの御霊の目を私に与えてください。
Your heart of compassion to know.
あなたの憐れみ深い心を知ることができるように。
Lord of the Harvest,
収穫の主よ、
Show me where to go.
私がどこに行くべきか教えてください。

Wherever you may lead me, Lord of the Harvest, I’ll go.
収穫の主よ、あなたがどこに導かれても、私は従います。

–ポール・スミス、ジェームズ・ニュートン・ハワード

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マタイの福音書 マタイ13章 マルコの福音書 マルコ6章

私たちが愛している者が私たちのあかしを拒絶するとき

私は以前にも述べましたが、聖書にはイエス様が2回驚かれた場面が記録されています。1回目は、百人隊長の信仰を見て驚かれた時です。(マタイ5:8-13)

2回目の出来事が、この話です。イエス様はすでにイスラエル中で有名な方となっていました。福音書によれば、その時イエス様は2度地元に戻られました。(おそらく他にも戻られたことがあったかもしれませんが、聖書には書かれていません。)

いずれにせよ、地元に戻られると、人々はイエス様の奇跡や知恵を認めながらも、イエス様を預言者やメシアとして受け入れることを拒みました。

なぜでしょうか。おそらく、彼らはずっとイエス様をただの大工として見ていたからです。それ以前、イエス様は何度も彼らのために食卓やいろいろなものを作ってくださいました。

その時、彼らは「イエス様は素晴らしい預言者だ」とは思わなかったのです。彼らにとって、イエス様はただの大工に過ぎなかったのです。

おそらく、そのおじいさんたちやおばあさんたちにとって、イエス様は昔その近所で遊んでいた子供としての印象が強かったのでしょう。その頃、イエス様は近所の子供たちと一緒に遊び、その家を訪ねて食事を共にすることもあったのです。

そのため、彼らにはイエス様に教えられることを受け入れるのが難しかったのだと思います。「この人が私に教えるなんて」と思ったかもしれません。だからこそ、イエス様が教えた時、彼らはむっとしたのでしょう。

それゆえ、イエス様は彼らにこう言われました。

預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。(マルコ6:4)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

1.神様は意外な人を通して話されることがあります。もし私たちが彼らを見下してしまうなら、神様の声を見逃してしまうかもしれません。

時には、彼らは若く、未経験者であることがあります。あるいは、あまり教養がない人かもしれません。そのため、私たちは彼らを見下してしまうのです。

けれども、根本的には、私たちは神様が彼らを少し軽んじておられると思い込むため、私たち自身も彼らを軽んじてしまいます。結果として、私たちは彼らの言葉を受け入れなくなるのです。

それでも神様は、若い人、年を取った人、教育を受けた人、教育を受けていない人を問わず、用いて私たちに語ってくださるのです。

神様はあなたが尊敬する牧師を用いることもできるし、あなたをイライラさせる妹や弟を用いることもできるのです。もし彼らが自分の人生を神様にささげ、聖霊様が彼らの中に住んでおられるなら、神様は彼らを通して私たちに語ることができるのです。

とはいえ、私たちは謙虚な心を持っているでしょうか。彼らの外見だけではなく、彼らの内におられる聖霊様を見ることができるでしょうか。

2.時には、以上の理由により、周りの人々があなたのあかしを拒絶することがあるかもしれません。イエス様も同じ経験をされたことがあります。不完全な私たちが拒絶されるなら、それは驚くべきことではないでしょう。

私たちには相手の反応をコントロールすることはできませんし、彼らに無理やり信じさせることもできません。

あなたの責任は、神様があなたに何を与えてくださったか、そして神様が何をしてくださったかを伝えることです。そして、もし彼らがあなたのあかしを拒絶するなら、彼らのために祈るべきです。

人々の心を変えることができる方はただ一人。それは神様です。

だから、拒絶されても、がっかりしないでください。謙虚な態度を持ち続けましょう。そして、ほかの人と話すときに、神様が語っておられるかどうか注意深く見ましょう。そうすれば、あなたの予想以上に神様の声を聞くことができるでしょう。

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マタイの福音書 マタイ9章

イエス様ができること。イエス様がしないこと。

この箇所を見ると、私たちはイエス様が何をすることができるのか、また何をしないのかを知ることができます。

イエス様は盲人や口のきけない人を癒すことができます。

けれども、イエス様はご自身を無理やり人々に信じさせることはされません。

わたしにそんなことができると信じるのか。(マタイの福音書9:28)

彼らが「そうです。主よ。」と答えた時、イエス様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われました。(29)

つまり、彼らが本当に信じなかったなら、彼らは癒されなかったのです。

実際には、私たちが信仰を持っていなくても、イエス様は私たちを癒すことができます。ある日、相手がイエス様のことをよく知らず、まったく信仰を持っていなかった状況でも、イエス様はその人を癒されました。(ヨハネ5:1-15)

とはいえ、多くの場合、イエス様は人々の信仰を求められました。

この話では、二人の盲人が信じたために癒されました。

ところが、次の話では、イエス様が口のきけない人を癒された時、多くの人々は驚きましたが、パリサイ人たちはイエス様を信じず、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました。(34)

イエス様がどんな奇跡やしるしを行っても、パリサイ人たちは信じることを拒み続けました。

イエス様は彼らの信仰を求められましたが、彼らに無理やり信じさせることはありませんでした。

同じように、イエス様は私たちにも無理やり信じさせることはされません。

イエス様は私たちに聖書を与えてくださり、神様が私たちの人生にどのように働いているかを示し、神様に従う時の祝福を思い起こさせてくださいます。

それでも、私たちは毎日自分自身に問いかけるべきです。「私は神様を信じるだろうか。私は神様を信じるので、神様の道を行くだろうか。」

そうすれば、神様からの祝福と癒しを見いだすことができます。

そうしない場合、パリサイ人のように、神様の祝福と癒しを決して知ることはできません。

さて、あなたはどうしますか。

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人々を清め、命を与えてくださる神

旧約聖書を読んでいると、「清いもの」と「汚れたもの」についての記述が頻繁に出てきます。ユダヤ人たちにとっては、触れても良いものと触れてはならないものが多くありました。

例えば、死骸は汚れたものとされていました。また、生理中の女性たちも汚れたものとみなされていました。もしそのような者に触れると、自分自身も汚れたものとされてしまいました。

以前にも述べたように、不思議なのは、イエス様が汚れた人々に触れた時、イエス様自身が汚れたものとならず、むしろその汚れた人々が清い者とされたことです。

この箇所では、まさにそのような場面を見ることができます。

一人の女性が、十二年もの間、長血の病に悩まされていました。これはおそらく、生理的な問題だったかもしれません。

彼女は一か月に一度だけではなく、常に汚れたものとみなされていました。彼女は多くの医者に診てもらいましたが、全く治りませんでした。

そこで彼女は必死にイエス様の服に触れようとしました。彼女は「この服に触れさえすれば、必ず治る」と信じていたからです。

では、なぜ彼女はイエス様に直接お願いしなかったのでしょうか。おそらく彼女は、自分の病のために深く恥じていたからではないでしょうか。

また、「汚れたもの」としてみなされていたため、イエス様に拒絶されるかもしれないと思っていた可能性もあります。

しかし、彼女がイエス様の服に触れた瞬間、病が癒された時、イエス様はこう尋ねられました。

だれがわたしの着物にさわったのですか。(マルコ5:30)

そして、彼女が自分の行動を認めるまで、イエス様は待っておられました。なぜイエス様が彼女の返事を求められたのでしょうか。おそらく二つの理由があったのだと思います。

一つ目は、彼女が完全に癒されたことを確信させたかったからです。つまり、その病気がもう二度と再発しないことを伝えるためでした。

二つ目は、イエス様が周りの人々にこの癒しについて知らせたかったからです。12年間、彼らはその女性を除け者にしていました。けれども彼女が清いものとなったことを公に知らせたいとイエス様は思われたのでしょう。

その後、イエス様は会堂管理者であるヤイロの家へ行かれました。彼の娘が瀕死の状態だったからです。ところが、その家に着く前に、ヤイロの家から人々が来て、「あなたのお嬢さんは亡くなりました」と伝えました。

それにもかかわらず、イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃいました。

そして、イエス様はその少女のそばに行かれ、愛を持ってこう言われました。「少女よ、あなたに言う。起きなさい。」

その言葉が告げられた瞬間、彼女は起き上がりました。

この話から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

私たちの罪によって、私たちは皆「汚れたもの」となってしまいました。「自分はあまりにも汚れていて、もうきよめられることはない」と感じているかもしれません。あるいは、「神様はもう私を赦してくださらない」と思っているかもしれません。

罪のために、希望を失っていると感じているかもしれません。結婚や家計が壊れてしまい、将来への展望がないと思っているかもしれません。

けれども、その女性を癒された神、またその少女を復活させられた神は、今も生きておられます。神様はあなたを清め、新しい命を与えることができます。

神様は、一つの言葉、一つの手で、あなたを癒すことができます。

もしあなたがイエス様に向かい、イエス様とその十字架の働きを信じるならば、イエス様はあなたを癒してくださいます。

ですから、あなたのために私はパウロのように祈ります。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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解放された

これは実に不思議な話だと思います。

嵐の後、イエス様とその弟子たちは湖の向こう側に到着します。そこで彼らは、二人の悪霊につかれた男性に出会います。

(マルコとルカの福音書では、悪霊につかれた一人の男性についてのみ記述されていますが、その理由は分かりません。もしかすると、一人だけがイエス様を信じたのかもしれません。ただし、それは推測にすぎません。)

おそらく、イエス様と弟子たちが浜辺へ漕ぎ寄せる途中で、奇妙な叫び声を耳にしたことでしょう。そして突然、裸の二人の男性が駆け寄ってきます。彼らは腕や足に壊れた鎖をつけていたかもしれません。

そして、弟子たちがよく見ると、彼らの体に多くの傷があることに気づきます。彼らは何度も自分自身を傷つけていたからです。

あなたがその二人を見たら、どのように感じるでしょうか。おそらく私は非常に恐怖を感じたでしょう。

それでも、イエス様は冷静に振る舞い、悪霊たちにその二人から出ていくよう命じられました。

悪霊たちは最初は従わずに叫びます。

神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。

神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。(マタイ8:29;マルコ5:7)

けれども、イエス様がもう一度「出て行け」と命じられると、その悪霊たちはイエス様に懇願します。

もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。(マタイ8:31)

イエス様が「行け」と命じられると、悪霊たちは豚の中に入りました。そして、その豚の群れは湖へ駆け降り、水に溺れて死んでしまいました。

その二人の人々は解放されましたが、町の人々はその光景を見ても喜ぶどころか、逆に恐怖を抱きました。

そのため、彼らはイエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と懇願しました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

まず第一に、悪霊は実在するということです。そして、悪霊は非常に危険な存在です。

一部の人々は、タロットカードやウィジャ板を使いながら「これはただの遊びだ」と考えるかもしれません。しかし、それらを使うことで私たちは悪霊の影響を受けやすくなります。

ある牧師がこう言っています。「悪霊の世界に通じるドアがあるが、そのドアには取っ手が一つしかありません。それは私たちの側にあります。私たち自身がそのドアを開けるとき、悪霊が私たちの人生に入ることができるのです。」

タロットカードやウィジャ板、占い師などはそのようなドアを表しています。

さらに、悪霊は私たちの益を全く望んでいません。時には光の天使のように装いますが、彼らの本当の目的は私たちを破滅に導くことです。

この箇所では、悪霊がその二人の人々や豚たちにどのように影響を与えたかをよく見ることができます。それは悪霊の意図を明確に示しています。

タロットカードやウィジャ板、占いは一見楽しそうに見えるかもしれませんが、それらの背後には悪霊が潜み、私たちを滅ぼそうとしています。

良い知らせは、私たちはその悪霊を恐れる必要がないということです。悪霊は確かに力を持っていますが、イエス様は彼らをはるかに超えた力を持っておられます。また、悪霊に対して、イエス様は完全な権威をお持ちです。

それでも、オカルトからは距離を置いてください。いつかイエス様と弟子たちのように、あなたも悪霊と向き合うことになるかもしれませんが、悪霊を求めることは決してしないでください。

さらに、この話から私たちが学べるもう一つの教訓があります。

最初、罪は魅力的に見えるかもしれませんが、最終的にその罪はあなたを支配するようになります。

どうして悪霊がその二人に入ったのかは分かりませんが、確かなのは、彼らが神様を求めていなかったということです。

そして、彼らが悪霊にドアを開けてしまった結果、悪霊が彼らに入り込み、彼らは自分自身をコントロールできなくなりました。その代わりに、悪霊が彼らを支配し始めたのです。

そのように、私たちは最初は罪を選んでしまうかもしれませんが、最終的にその罪に支配されることになります。そして、この話にあるように、私たちは自分自身を傷つけてしまいます。

神様が私たちに恵みを与えず、私たちが決して悔い改めないなら、私たちは最終的に滅びてしまうでしょう。

しかし、イエス様は私たちを解放する力を持っておられます。もし私たちが心から悔い改めるなら、イエス様は私たちを赦し、罪に打ち勝つことができるよう助けてくださいます。

ただ、私たちの変化を周りの人々が見たとき、必ずしも喜んでくれるわけではありません。

この話では、町中の人々は喜びませんでした。それどころか、イエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と願ったのです。

悪霊につかれていた人々は恐ろしい存在でしたが、町の人々はむしろ彼らが解放されなかったほうが良かったと思っていたかのようです。

あなたの周りの人々も、あなたの変化を見たとき、同じように感じるかもしれません。

それでも、イエス様は私たちをその人々のもとに送り出されます。そして、イエス様が彼らに言われたように、私たちにもこう言われます。

家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。(ルカ8:39)

イエス様はあなたを解放してくださいました。神様があなたにしてくださったことを周りの人々に伝えてみませんか。そうすることで、彼らも解放される可能性があります。

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私たちの信仰

イエス様の言葉、「信仰の薄い者たちだ」を読むとき、私はこう思います。「もし、イエス様が私を見ると、イエス様に同じ言葉を言われるかなあ。「ブルース、どうしてあなたの信仰はそんなに薄いか。」」

イエス様の弟子たちの状況についてちょっと考えてみてください。

イエス様が言った通りに、彼らは湖を渡ろうとしました。最初は、湖は静かだったけど、急に大暴風が起こりました。その船は大波にぶつかったし、どう漕いでも、進めることができませんでした。

そして、彼らは思い出しました。「イエス様はここにおられる。どうして、イエス様は何もしてくださらないだろうか。」

彼らはイエス様を見たけど、イエス様は寝ていました。「私たちはすぐに死んでしまうのに、イエス様は寝ているのか。」

だから、彼らはイエス様を起こして、叫びました。「先生。私たちはおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。助けてください。」

その時点で、弟子たちはイエス様から何を期待したのでしょうか。この話の最後で、彼らはイエス様の力に本当に驚きました。だから、何を期待していたでしょうか。

多分、彼らは全然何も期待していませんでした。彼らはイエス様に頼んだけど、「多分イエス様には何もできない」、と思ったでしょう。

でも、彼らが分かったのは、彼らを助ける力を持つ人は、イエス様しかいないということです。だから、彼らの反応には、信仰と不信が入っていました。

どのぐらい、私たちもそのように反応するでしょうか。私たちは自分の問題におぼれているし、私たちはずっと頑張ったけど、最終的に希望がなくなりました。

だから、やっと私たちはイエス様に叫ぶけど、実は、私たちはイエス様が私たちを助けられないと思っているけれど、もうほかの解決が見えないのだと思います。

私たちは信仰をもつ心から叫べずに、恐れから叫びます。

私たちは「イエス様は寝ているの?私たちのことを本当に愛しているだろうか」、と思います。

でも、恵みによって、イエス様は私たちを助けて、優しく叱責します。「どうして、そんなに怖がっているのでしょうか。まだ信仰がないのですか。」

だから、この記事の元の質問に戻ります。どのぐらいイエス様はそのことを私に言うでしょうか。どうして、私はイエス様の愛を疑うでしょうか。イエス様が何回も自分の力を現したのに、どうして私はその力を疑うでしょうか。でも、私はそうします。

私がイエス様を心から信頼できたら、なんと素晴らしいことでしょう。

自分の状況をコントロールできないとき(そもそも私たちにコントロールできることが本当にあるのでしょうか)、私はパニックにならずに、イエス様に信頼して歩むことを願っています。

さらに、信仰をもって、イエス様が私を愛し、私の必要を備えてくださることを信じて生きることを願っています。

あなたはどうですか。それがあなたの願いなのですか。

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マタイの福音書 マタイ13章

神の宝を分かち合う?

「あなたがもらったものをどうしましたか。」

裁きの日に、神様は私たちにこの質問をされるのではないかと思います。この箇所で、イエス様は同じ質問を弟子たちにされたのだと思います。

イエス様は彼らにこう問いかけられました。

あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。(50)

彼らが「はい」と答えると、イエス様はこう言われました。

だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。(マタイの福音書13:52)

この箇所から、私たちは二つのことを学ぶことができると思います。

1.神の国に関する知識は宝のようなものです。(ギリシャ語で「倉」という言葉には、「宝」という意味もあります。マタイ13:44では、この同じ言葉が新改訳で「宝」として翻訳されています。)だから、私たちはその知識を軽んじてはいけません。

2.私たちが問題に直面するとき、また周りの人々が問題に直面するとき、私たちはその宝を活用すべきです。

私たちは神の国に関する知識という宝を与えられています。その知識を周囲の人々に分かち合わなければなりません。私たちのメッセージは何ですか。

そらは、神様は人々を素晴らしい価値のある真珠とみなされるのです。だからこそ、イエス様はすべてを捨てて、十字架で私たちを買い取られました。

また、私たちが見る悪は永遠に続かないと知っています。ある日、その悪は取り除かれ、裁かれるのです。

さらに、今でも神様はこの世に働いておられます。そして、神様が蒔かれた種は小さいかもしれませんが、その過程が私たちには見えなくても、その種は成長します。サタンでさえ、その成長を止めることはできません。

そして、その木の下で、人々は平和と喜びを見いだすのです。

あなたがその宝を分かち合うとき、それを初めて聞く人もいれば、何度も聞いたことがある人もいるでしょう。

それでも、この世の人々を見ると、その宝をすぐに分かち合いましょう。なぜなら、多くの人々が愛、希望、そして人生の目的を求めているからです。そして、私たちが持っている宝だけが、その飢えを満たすことができるのです。

さらに、ある日、神様はあなたに問われるでしょう。「私はあなたに素晴らしい宝を与えたが、それをどうしましたか。周りで苦しんでいた人々にそれを分かち合いましたか。」

あなたはどう答えるでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ13章

網のたとえ話:迫っている裁き

福音書の中で、イエス様は天国について語られましたが、実際には天国よりも地獄について多く教えられました。この箇所では、イエス様は迫り来る裁きについて語られています。

以前にも述べたように、この世の悪を見るとき、私たちはしばしばフラストレーションを感じ、「なぜ神様が何もしないのか」と疑問に思うことがあります。

けれども、この箇所では、イエス様はその日が必ず来ると語られます。すべての人々は、たとえ死者の魂であっても、あるいはまだ生きている者であっても、神様の前に立ち、裁きを受けます。

その日、神様は悪者と正しい者を分けられます。正しい者は報いを受け、永遠に神様とともにいることができます。

その一方、悪者について、イエス様は次のように語られます。

この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイの福音書13:49ー50)

なぜイエス様はこのことを教えられたのでしょうか。その一つの理由は、私たちに希望を与えるためです。つまり、この世の悪は永遠に続かないということです。この邪悪な世界の中で、私たちにはそのような希望が必要だと思います。

二つ目の理由は、私たちに警告を与えるためです。つまり、神様の忍耐は永遠に続かないということです。

神様は誰も滅びることを望まれません。しかし、人々があえて神様とその福音を拒絶した場合、神様は彼らの意志を尊重されます。つまり、彼らは永遠に神様から離れて生きることになります。

けれども、その日が来ると、彼らは神様から離れていることが、どれほど惨めな状態かを悟るでしょう。だからこそ、彼らは永遠に絶望して苦しむことになります。

多くの人々は、神様が彼らの喜びを奪おうとしていると思い込み、神様から逃げます。しかし、実際には、神様から離れると、本当の喜びは全く存在しません。

ですから、この邪悪な世界を見るとき、心に留めておきましょう。裁きの日は迫っています。あなたは準備ができていますか。つまり、信仰によって神様の救いを受け入れましたか。

もしあなた自身が準備できているなら、自分にこう問いかけましょう。「私が愛する人々は準備ができているだろうか。」

もし彼らが準備できていないなら、どうしても彼らに福音を伝えましょう。

地獄は現実です。イエス様はそう教えられました。あなたは信じていますか。そして、信じているならば、福音をあなたが愛する人々に伝えているでしょうか。

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隠された宝と真珠の商人のたとえ話:救いの喜び

数年前、私は興味深い記事を読みました。ある夫婦が自分の庭にいたとき、木の下に埋まっていた缶を見つけました。それはただのごみのように見えましたが、注意深く見ると、中には古い金貨が入っていました。その金貨は1800年代のものでした。

さらに庭を探してみると、彼らは金貨が入った缶をいくつも見つけました。その金貨の価値は約10億円でした。私もそんな宝物を見つけられたらいいのにと思います。

この箇所で、イエス様のたとえ話は、この話に似ています。

最初のたとえ話では、ある男性が畑に隠された宝を見つけました。けれども、その畑は自分のものではなかったため、その宝をもう一度埋めた後、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その畑を購入しました。

2つ目のたとえ話では、商人が真珠を探していて、素晴らしい真珠を見つけました。しかし、その真珠は非常に高価だったため、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その真珠を購入しました。

これら2つの話を読むとき、私は2つのことに心を打たれます。

1つ目は、宝を見つけた人たちの喜びです。2つ目は、どうしてもその宝物を手に入れようとする彼らの決意です。

多くの人々がこの話を読むとき、キリストを見つけた人の喜びを思い浮かべます。

イエス様との関係には計り知れない価値があるため、彼らはイエス様を得るためにすべてを捨てる覚悟があります。イエス様に従うために、自分の家や家族、持ち物を手放します。(マルコ10:29)

それは少し痛いかもしれませんが、彼の喜びはその苦しみをはるかに上回ります。

けれども、この話にはもう一つの解釈があります。それは、私たちが宝物であり、真珠であるということです。そして、イエス様が私たちを探している人です。

私たちは自分の罪のために迷い、霊的に死んでいました。ところが、イエス様が私たちを見つけたとき、喜びをもってすべてを売り払って私たちを買い取られました。イエス様は天国を去り、自分の栄光を天国に残して人間となられました。

この世にいる間、イエス様は空腹を感じることもあり、喉が渇くこともあり、疲れることもあり、痛みに耐えることもありました。そして、イエス様は十字架で苦しみ抜いて死なれました。

なぜでしょうか。それは、イエス様にとって私たちがすばらしい価値を持つ真珠だからです。私たちは埋もれている宝物です。

私たちは汚れていて、錆びついているかもしれませんが、イエス様の目には非常に高い価値がありました。だからこそ、イエス様はすべてを捨てて、私たちを買い取られました。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

パウロは次のように言いました。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

だからこそ、毎日私たちを愛してくださる救い主をほめたたえましょう。。

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良い先生の特質

私は20年以上英語を教えてきましたし、30年近く聖書を教えてきました。

それでも、イエス様の教える技術のレベルには決して達することができないと思います。イエス様は、本当に最も熟練した先生でした。

なぜイエス様はそんなに素晴らしい先生だったのでしょうか。それは、イエス様の教え方が本当に素晴らしかったからです。では、イエス様はどのように教えたのでしょうか。

この箇所によると、イエス様はいつもたとえ話を用いられました。では、なぜたとえ話を用いられたのでしょうか。

以前にも述べたように、たとえ話を通して、イエス様は誰が本当に学びたがっているのかを区別されました。学びたいと思う人々は、いつもイエス様に質問をしました。

一方で、質問をしない人々は、その話を楽しむことはできても、その話の意味を理解することはできませんでした。

けれども、イエス様に質問をする人々にとっては、たとえ話は分かりやすくなり、覚えやすいものとなったのです。

それは、良い先生が持つ特質の一つです。霊的な真実を説明する際、誰にでもその真理が理解できるようにすることです。

一部の先生は、自分の学歴や霊的な知識を誇示したいがために、誰も理解できない術語を使ったりします。また、会衆がすぐに忘れてしまうギリシャ語やヘブル語を紹介することもあります。

その結果、会衆は感激して「本当に深いメッセージだったね。学問的な内容だった。」と言うかもしれません。

それでも、最終的には彼らはこう思うのです。「いったい何の話だったのか、その意味がよく分からなかった。」

一方で、イエス様はいつもシンプルな言葉を用いられたため、誰にでも理解できました。

そのたとえ話とシンプルな言葉のおかげで、会衆はイエス様の教えに引き込まれました。会衆にとって、つまらない話を長時間聞くのは本当に苦痛です。しかし、イエス様は決してそのような話をされませんでした。

イエス様は会衆のレベルを正確に理解しておられました。マルコによれば、「イエス様は彼らの聞く力に応じて、みことばを語られた」(マルコ4:33)とあります。

つまり、イエス様は彼らが理解できないことを教えられることはありませんでした。

また、へブル人への手紙の著者も、赤ちゃんに堅い食べ物を与えるのは適切ではない、と述べています。その赤ちゃんが堅い食べ物を食べられるようになるまでは、ミルクを与えなければなりません。そして、成長したら堅い食べ物を与えることができるのです。(ヘブル5:11-14)

最後に、イエス様は弟子たちの質問にいつも答えてくださいました。マルコはイエス様についてこう記しています。

たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。(4:34)

普通、イエス様は弟子たちの質問を待って、その質問に答えてくださいました。

私たちはイエス様のようにいつも答えを持っているわけではありません。けれども、質問を通して、私たちはさらに学び、先生として成長していくことができます。

たとえあなたが教会の先生ではなくても、私たちは皆教える機会を持っています。例えば、子供たちを教える機会や、神様に導かれて私たちのもとに来た人々を教える機会が与えられます。

だからこそ、イエス様のような先生になるために努力していきましょう。

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パン種のたとえ話:変えられた

私はパン屋ではありませんが、おそらく誰でもこの個所のたとえ話を理解できるでしょう。イエス様は再び神の国について語られています。

パン職人がパンを焼くとき、生地にパン種を入れます。そのパン種は何をするでしょうか。

まず、パン種は生地全体に広がり、次に、生地の性質を変えます。もしパン種が入らなければ、そのパンは平たく、固いものになります。しかし、パン種のおかげでパンはふんわりと膨らみ、おいしくなります。

神の国も同じようなものです。

まず、私たちは福音の種を人々の心に蒔きます。そして、ある人々は信仰によって福音を受け入れます。福音は彼らの魂の中に広がり、やがて彼らは全く新しい人へと変えられます。

彼らの考え方が変わり、行動も変わり、彼らのすべてが新しくなります。

だから、パウロはこう記しました。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (第二コリント5:17)

神の国とは、そのようなものです。

私たちは、この世界を政治的な方法によって変えることはできません。新しい法律が制定されたとしても、世界そのものは変わりません。

誤解しないでください。もちろん、民主的な社会において、私たちは自分の権利を行使し、変化のために戦うべきです。

しかし、新しい法律によって人々の心を変えられると考えるなら、それは私たちが自分自身を欺いていることになります。

たとえば、同性愛に反対する法律が制定されても、人々の振る舞いは変わりません。中絶を禁止する法律ができても、中絶する人がいなくなるわけではありません。

神の国は、一瞬にしてこの世に現れるものではありません。聖霊様は人々を一人ずつ変えていかれます。

まず、聖霊様は私たちの心を変えてくださいます。そして、私たちを通して、聖霊様はほかの人々に触れ、彼らを変えていかれます。こうして、少しずつ神の国は広がり、やがて国々も変わり始めます。

だからこそ、私たちは自分自身に問いかけるべきです。私たちは福音をもって、何をしているでしょうか。あなたは福音を受け入れ、その結果、あなたの人生は変えられているでしょうか。

そして、あなたは周囲の人々に福音を伝えているでしょうか。そうすることで、聖霊様は彼らの心にも働き始めてくださいます。

だから、毎日祈りましょう。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

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からし種のたとえ話:小さいものから始まること

私は、イエス様が御自身の説教で用いられた生き生きとした描写が大好きです。

この話では、イエス様は神の国をからし種に例えられました。その種はとても小さいものですが、やがて大きな木に成長し、鳥はその枝に巣を作ります。

イエス様の要点は何でしょうか。たいていの場合、神の国は最初から大きなものとして始まるのではなく、むしろ小さなものとして始まります。

特に、多くの場合、神様は御自身の国を建てるために、世の目には取るに足りないと思われる人々を選ばれます。

例えば、マリアは貧しい十代の女性でした。ヨセフはただの大工でした。

そして、イエス様が来られたとき、大軍を率いる王としてではなく、父ヨセフと同じく大工として来られました。

イエス様が弟子たちを選ばれたとき、漁師、ローマ帝国と協力する収税人、そしてローマ帝国を憎む愛国者を選ばれました。

キリスト教が始まったとき、それは世の基準では取るに足りない都市で始まりました。当時の世界にはエルサレムよりも重要な都市がいくつもありましたが、神様はエルサレムを選ばれました。

それでも、その取るに足りない都市から、クリスチャンたちは世界中に行き、福音を宣べ伝えました。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは自分を取るに足りない人間だと思うかもしれません。神様が天の国のためにあなたを用いることはできないと思うかもしれません。

けれども、世の目には取るに足りないと思われるからこそ、神様は喜んであなたを用いられます。神の国には、たくさんの「取るに足りない人」がいるのです。

そして、あなたのような人を通して、神の国は広がり、この世の人々に触れていきます。

だからこそ、パウロはこう記しました。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(第一コリント1:26-29)

心に留めておきましょう。神様の目には、あなたは取るに足りない人ではありません。むしろ、神様は小さな者を通して偉大な御業を行われます。

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毒麦のたとえ話:どうして悪があるの?

多くの人々は、なぜ神様がこの世に悪を許されるのかについて疑問を持ちます。

このたとえ話で、イエス様はその理由の一つを示してくださいました。

私たちが理解しなくてはならないのは、神様がこの世の悪の源ではないということです。神様は聖なる方であり、決して悪いことをされません。神様は良い種だけを蒔かれます。

とはいえ、私たちには敵がいます。サタンは人々の心に悪い種を蒔きます。その種は毒麦となり、人々を傷つけ、さまざまな害をもたらします。

イエス様はその人々を引き抜くこともできますが、そうすると神様が救いたい人々に悪い影響を与える可能性があります。

どうしてなのでしょうか。正直に言うと、私はすべてを理解しているわけではありません。しかし、例えば、ある人々は神様に対して本当に無関心である場合があります。時として、苦難がなければ、彼らは決して神様に向かおうとしないのです。

それは天災であることもあれば、犯罪による被害であることもあります。もしかすると、彼らは本当に傷つくかもしれません。

けれども、その苦しみを通して、彼らは神様を見出し、救いに至るのです。そして、もしその苦しみがなければ、その人が救われることは決してなかったと神様はご存じなのです。だからこそ、神様は毒麦が残ることを許されているのです。

簡単に言えば、神様には私たちには見えないことが見えています。神様は私たちが知らないことを深くご存じです。

しかし、忘れないでください。裁きの日は必ず来ます。

人を殺す者には裁きが下されます。女性を傷つけた者にも裁きが下されます。神様に反抗する者には、裁きが訪れます。

その日には、すべての人が、神様に仕える者と神様を拒む者の違いをはっきりと理解するでしょう。

だから、この邪悪な世界を見て絶望しないでください。裁きの日を待ち望んでください。その日は正義がもたらされます。そして、その日にはすべての人が神様の知恵と正義を知るのです。

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イエスのたとえ話:御国の種

このたとえ話には、前回のたとえ話と大体同じ意味があると思います。前にも言いましたが、私たちは神様の言葉を人々の心に蒔くかもしれませんが、その種を成長させることができるのは神様だけです。

例えば、私たちが福音を伝えるとき、相手は無関心かもしれません。または、彼らが本当に怒るかもしれません。それでも、私たちが意識しなくても、その種は根を張っているかもしれません。

私たちの力がなくても、神様は聖霊様を通して、相手の心の中で働き始めます。神様は状況や他の人々を用いて、その人を近づけてくださいます。

そして、いつの間にか、その人はあなたのところに来て、微笑みながらこう言うのです。「イエス様のことを教えてくださって、本当にありがとうございます。あなたのおかげで、私はクリスチャンになりました。」

しかし、このたとえ話はまた別の解釈もできると思います。

時々、私たちはこの世を見てフラストレーションを感じます。「神様の国は本当に来るのだろうか。そうは見えないなあ。この世界はだんだん悪くなっているようだから。」

でも、このたとえ話では、私たちはいくつかのことを学ぶことができます。

イエス様とその弟子たちを通して、神の国の種はすでに蒔かれました。今でも、人々の心にたくさんの種が蒔かれています。そして、その種は成長し続けています。

とはいえ、多くの場合、私たちはその成長に気づきません。けれども、振り返ると、その福音の種がどれほど成長したかに気づくことができるのです。

イエス様が天に戻られて以来、福音がどれだけ広まったか考えてみてください。一つの都市から始まり、世界中に広まりました。今でも、その福音は広がり続けています。

そして、神様の国が打ち勝つことは確かなものです。誰もその成長を止めることができません。ソ連もそれを学びました。福音を滅ぼそうとした他の国々も、それを学びました。

だから、最終的に神様の国が来て、すべての人々がその国を見ることになります。その日、イエス様はすべてを治められます。そして裁きの日に、イエス様に従う人々は報いを受け、自分の道を選んだ人々は滅びるのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。

1.希望を持って待つこと。 周りの悪を見て、失望するのは簡単なことです。でも、勇気を持ってください。神様の国は確かに来ています。そして今も成長を続けており、誰もその成長を止めることはできません。

だから、たとえフラストレーションを感じたり苦しみを経験したりしても、待ち望み続けてください。この邪悪な世界は永遠に続くことはありません。そして裁きの日には、あなたは必ず報いを受けます。

2.ちゃんと準備をすること。 いつイエス様が戻られるかわかりませんが、その日まで私たちは天の父のご用を果たさなくてはなりません。

イエス様が戻られる時期は重要ではありません。重要なのは、イエス様が戻られるその時に、私たちがちゃんと準備を整えていることです。

あなたはどうでしょうか。あなたは準備ができていますか。

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種まきのたとえ話:種を蒔こう

前回、この箇所についてお話ししましたが、今日は同じ箇所から別の視点についてお話ししたいと思います。

この話を見ると、農夫がイエス様を象徴していると考えることがよくあります。それも確かにそうかもしれませんが、イエス様が農夫について語られたとき、私たちのことを考えていた可能性もあります。

イエス様がこの世におられた時間は非常に短いものでした。その間に、イエス様は神様の御言葉を人々の心に蒔きましたが、今や私たちがその種を蒔く役割を担っているのです。

このたとえ話から、本当に重要なことを学ばなければならないと私は思います。

私たちが神様の御言葉を蒔くとき、その種が固い心に落ちることがあります。相手がその言葉を聞いても理解せず、また理解しようともしないため、サタンがその言葉を奪ってしまいます。

また、別の人々はその言葉を聞き、喜んで受け入れ、自分の信仰を宣言します。その姿に私たちは大変喜びます。けれども、困難や迫害が訪れると、彼らはその信仰を簡単に捨ててしまいます。

ある人々は、その言葉を信じ、クリスチャンとして成長し始めます。しかし、彼らの仕事や生活の忙しさが、神様との関係を妨げてしまうことがあります。

おそらく彼らは、お金や物を優先しすぎるのかもしれません。教会には通っているかもしれませんが、それ以上の霊的な成長は見られず、霊的な実を結ぶこともありません。

けれども、他の人々はその言葉を聞き、神様の国のために豊かな実を結び始めます。

私のポイントは何でしょうか。その結果は私たちの責任ではありません。私たちは相手の心を変えることはできません。では、私たちにできることは何でしょうか。

私たちは、種を蒔くことができます。そして、水を注ぐことができます。さらに、祈ることができます。パウロはこう言いました。「植える人もいるし、水を注ぐ人もいるけど、成長させたのは神です。」(第一コリント3:6-7)

蒔いた種が成長せず、実を結ばないとき、がっかりした経験があるでしょうか。その結果をコントロールすることはできません。

私たちにできることは、ただ種を蒔き、水を注ぐことです。その後、その人を神様に委ねるしかありません。

あなた自身はどうでしょうか。その種を周りの人々に蒔いていますか?

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種まきのたとえ話:私たちの心の状態

以前、イエス様はさまざまなたとえを用いられましたが、これはイエス様の最初の本格的なたとえ話です。

このたとえ話では、農夫が多くの種をあちらこちらに蒔きました。おそらく、もっと効率的な方法があったかもしれませんが、その時代の農夫たちはこのようにして種を蒔いていました。

道に落ちた種もありましたが、鳥が来てその種を食べてしまいました。イエス様によれば、その道は、神様のみ言葉を聞く人を象徴しています。けれども、残念ながら、その人はその言葉を理解できず、理解しようとも思いませんでした。

私は前に述べたように、たとえ話は本当に学びたいと思った人と、ただエンターテインメントを求める人とを区別しました。

イエス様の弟子たちのように学びたい人々は、イエス様にそのたとえ話の意味を尋ねました。一方で他の人々は意味が分からないまま帰りました。

彼らはイエス様の話を楽しんだかもしれませんが、そのたとえ話の意味を理解せず、理解しようとも思わなかったのです。その結果、サタンがその言葉を奪い、彼らはその言葉をすぐに忘れてしまいました。

また、他の種は岩地に落ちました。岩地とは、石灰岩の上に薄い層の土がある場所です。その土は浅かったため、種はすぐに芽を出しましたが、日が昇ると、根がないためにすぐに枯れてしまいました。

このような人々について、イエス様は次のように言われました。「み言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れます。しかし、み言葉のために困難や迫害が起こると、彼らはすぐにつまずいてしまいます。」(マルコ4:16-17)

彼らはそもそもクリスチャンだったのでしょうか。おそらくそうではないと思います。なぜなら、彼らには根がなかったからです。

もしかすると、彼らには一時的な感情的経験だけがあったのかもしれません。けれども、その感情がなくなり、「信仰」のために迫害が訪れたとき、彼らはすぐにキリストに背を向けてしまいました。

また、他の種はいばらの中に落ちました。ところが、「いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。」(マルコ4:7)

このような人々について、イエス様はこう言われました。「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」(マルコ4:19)

多くのクリスチャンがそのような生き方をしています。この世を愛しすぎるあまり、イエス様に対する愛を忘れてしまうのです。

最後に、ある種は良い地に落ち、たくさんの実を結びました。このような人々は、神様の言葉を聞き、理解し、受け入れ、そしてずっとその言葉を覚え続けます。そのため、彼らは神様の国のために豊かな実を結びます。

あなたの心はどのような状態でしょうか。

神様の言葉がわからないとき、あなたはその言葉をただ置いておくだけでしょうか。それとも、その意味を求めるでしょうか。誰かに尋ねるでしょうか。

私たちは質問することで成長します。けれども、もし私たちが尋ねないままでいるなら、全く成長することはありません。そして、サタンが神様の蒔いた種を盗んでしまいます。

教会に行くとき、ただ感情的な経験だけを求めていませんか。感情は移り変わるものです。もし感情に基づいて信仰を築こうとするなら、その信仰はすぐに崩れてしまいます。むしろ、あなたの信仰はイエス様とそのみ言葉に基づいて築かなければなりません。

あなたは毎日、何を求めているでしょうか。

すべてに優先して、神様を求めていますか。それとも、お金、快楽、持ち物を求めるあまり、神様のために時間がなくなってしまっていますか。また、あなたはもう神様の御心と御国を求めることを忘れてしまっていませんか。

それとも、あなたは神様のみ言葉を聞き、その意味を理解しようとしていますか。その言葉を受け入れ、信じ、心に刻んでいることで、豊かな実を結んでいますか。

あなたの心の状態は、今どのようなものですか。

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イエスのたとえ話:真理を求める目と耳

イエス様の口癖の一つは、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉です。

福音書においても、イエス様はその言葉を語られ、黙示録においても同じ言葉を語られました。

では、イエス様が意味されたことは何だったのでしょうか。

ある日、イエス様がたとえ話を語られた後、弟子たちはこう尋ねました。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」

イエス様は次のように答えられました。

あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。

というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。

わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。

それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」(マタイ13:11-15)

「あなた方に天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」という言葉は、一見すると少し不公平に感じられるかもしれません。

なぜイエス様はそのようなことを言われたのでしょうか。少し考えてみましょう。

イエス様のたとえ話は、だれでも聞くことができました。そのたとえ話の意味は、漠然としていたかもしれませんが、イエス様はその意味がいつか明らかになるよう意図されました。そして最終的に、それらのたとえ話は真理を照らします。

イエス様は次のように言われました

隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。(ルカ8:17)

だから、弟子たちがイエス様のたとえ話の意味を求めると、イエス様はその意味を説明されました。そして、最終的に彼らは教会の人々にその意味を伝えました。

とはいえ、すべての人々が真理を本当に知りたいと思うでしょうか。彼らは答えを求めているでしょうか。それとも、彼らはただのエンターテインメントを求めているだけでしょうか。

イエス様のたとえ話は、神様の真理を求める人々とエンターテインメントを求める人々を区別しました。

現代の教会が抱える問題の一つは、多くの人々が神様の真理を求めるよりも、エンターテインメントを求めていることです。

そのため、彼らは賛美を歌ったり、牧師のメッセージを聞いたりするかもしれませんが、それでもその言葉が彼らの心を貫くことはありません。

そして、万が一その言葉が心を貫き、違和感を覚えるとしたら、彼らはその言葉を聞くことをやめて、別のことを考え始めます。

残念ながら、彼らがその状態を続けるなら、最終的に彼らは神様の声を聞くことができなくなります。マタイが引用したイザヤの預言は彼らに実現します。

彼らは見ても、本当に見ることはありません。聞いても、本当に聞くことはありません。むしろ、彼らは自分の目と耳を神様の真理に対して閉ざしてしまうのです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告されます。

「神様の真理を聞くとき、あなたの聞き方に注意しなさい。そして、その言葉にきちんと思いを巡らしなさい。もしその言葉を正しく聞いて従うなら、神様はさらに多くを教えてくださいます。

けれども、そうしないなら、学んだことを忘れ、ついには神様がもうあなたに語りかけてくださらなくなるのです。(マルコ4:24;ルカ8:18)

そして、イエス様は弟子たちにこう言われました。

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16-17)

あなたはどうでしょうか。あなたには真理を見極める目と神様の言葉に耳を傾ける耳があるでしょうか。

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祝福を得るため

私たち皆、神様の祝福を知りたいと願っています。でも、その祝福をどのようにして得ることができるでしょうか。

イエス様が群衆に語られた時、ある女性がこう叫びました。

あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。(ルカの福音書11:27)

しかし、イエス様はこう答えられました。

いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。(28)

クリスチャンたちにとっても、「従順」という言葉は、あまり人気のある言葉ではありません。多くのクリスチャンは従順よりも、神様の恵みについて語ることを好みます。

もちろん、神様の恵みがなければ、だれも神様の祝福を受けることはできません。なぜなら、私たちは神様の祝福に値しないからです。

とはいえ、神様の祝福を受ける鍵は、信仰による従順な心です。

私たちは「神様を信じる。神様のみ言葉を信じる」と言うかもしれません。

けれども、従順な心を持たなければ、その言葉は意味をなしません。

もし私たちが本当に神様に信頼するなら、また、本当にそのみ言葉を信じるなら、私たちは神様の言葉に従うでしょう。

だから、一番大切な質問は、「あなたは本当に神様を信頼していますか。」ということです。あなたは、その言葉に従うなら、祝福されると信じていますか。

例えば、結婚する日まで、婚前交渉を控えるなら、あなたの結婚はより祝福されると信じていますか。

あなたが献金をささげるなら、あなたの経済が悪化することなく、祝福されると信じていますか。

あなたが主に従うように、自分の夫に従うなら、または、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたが自分の妻を愛するなら、あなたの結婚が祝福されると信じていますか。

もしくは、あなたはその言葉が理想的すぎると考えていますか。

もし、本当の祝福を見つけたいなら、神様に信頼することを学ぶ必要があります。 あなたは神様の道が最善であると信じる必要があります。

そして、その言葉に従うことが求められます。

それは簡単でしょうか。いいえ、そうではありません。

しかし、心に留めてきましょう。神様の恵みによって、私たちは神様を信じ始めました。同じように、神様の恵みによって、私たちは神様の言葉に従う力を持つことができます。

私たちが神様に頼みさえすれば、神様は私たちにその力を与えてくださいます。 イエス様はこう言われました。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

あなたはどうでしょうか。神様に信頼し、従っていますか。