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訊くのを恐れる?

マタイ17:22-23;マルコ9:30-32;ルカ9:43-45

この箇所で、イエス様は再び弟子たちに、エルサレムで何が起こるのかを説明されました。彼は非常に明確に語られました。

このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。(マタイ17:22-23;ルカ9:44)

弟子たちはどのように反応したのでしょうか。

しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。(ルカ9:45)

多くの私たちにとって、弟子たちがイエス様の言葉を理解できなかった理由はわかりにくいかもしれません。

イエス様は曖昧な表現をされたわけではなく、率直に語られました。それにもかかわらず、なぜ弟子たちはイエス様の言葉を理解できなかったのでしょうか。

ルカはその理由を私たちに示しています。「このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。」

では、なぜその言葉は彼らから隠されていたのでしょうか。おそらく、彼らの心はその言葉を理解できるほど十分に準備されていなかったからです。彼らはまだ、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、新しい王国を築かれることを望んでいました。

けれども、その希望にあまりに集中しすぎたため、イエス様の明確な言葉を理解することができませんでした。さらに、彼らはイエス様にその言葉の意味を尋ねることを恐れました。

なぜ彼らは恐れたのでしょうか。私は、彼らがイエス様の叱責を恐れたとは思いません。むしろ、彼らはイエス様の言葉が比喩ではなく、現実のものだと気づくことを恐れたのではないでしょうか。

彼らはイエス様が殺されるという事実に意識を向けすぎて、イエス様がよみがえられるという約束を聞き逃してしまいました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

時として、私たちは自分の考えに固執しすぎるあまり、イエス様が明確に語られても、その言葉を正しく理解できないことがあります。「イエス様はこう言っているように聞こえるけれど、きっと本当の意味は違うはずだ」と思い込んでしまうのです。

それでも、私たちはイエス様に尋ねることを避けたくなることがあります。なぜなら、もしイエス様が本気でそう言われたのなら、私たちは自分の考え方や生き方を変えなければならないからです。そして、変えることは時に恐ろしく感じられます。

たとえば、パウロはこう言っています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(第二コリント6:14)

つまり、もし相手があなたを神様とその道から遠ざけるのであれば、その人から離れたほうが良いということです。

しかし、クリスチャンではない人と交際しているクリスチャンにとって、またクリスチャンではない人と婚約しているクリスチャンにとって、この言葉は受け入れがたいものかもしれません。

「これは、彼氏と別れるべきだという意味なのだろうか?」

そう思いながらも、彼らは神様に尋ねたくありません。なぜなら、神様に尋ねれば、答えは明確であり、その人と別れるべきだと示されるかもしれないからです。

また、パウロはこうも言っています。「不品行を避けなさい。」(第一コリント6:18)

すると、あるクリスチャンはこう考えるかもしれません。「この言葉の意味は、私が彼氏と関係を持つべきではないということなのだろうか?」

けれども、その人は神様に尋ねたくありません。なぜなら、すでに関係を持ってしまっているからです。

正直に言うと、真理を聞くことは時に痛みを伴うものです。自分の考え方や行動を変えることもまた、大きな痛みを伴うことがあります。

しかし、その苦しみに意識を向けすぎるあまり、私たちはその先にある祝福や希望を見落としてしまうことがあるのです。

たとえば、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」と書かれている箇所には、次のような言葉もあります。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。(第二コリント6:17-18)

さらに、「不品行を避けなさい。」と書かれている箇所には、次のような言葉があります。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であることを知らないのですか。」(第一コリント6:19)

私たちは、この真理についてもっと深く考えるべきです。

だから、聖書について疑問があるなら、積極的に尋ねるべきです。そして、その言葉を心に抱き、日々の歩みにおいて生きるべきです。

最初は痛みを伴うかもしれませんが、やがて私たちは神様からの祝福を知ることになるでしょう。

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