この箇所は、マタイ16章に似ています。この箇所も少し解釈が難しいです。
マタイ16章では、イエス様は繋ぐことと解くことについて話されています。
何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(16:19)
その箇所では、イエス様は神の国と救いについて話されています。新約聖書を読むと、多くの場合、神様が私たちを通して人々に触れたいと望んでおられることがわかります。
私たちはキリストの体です。私たちは周りの人々にとって、イエス様の目や耳、口、そして手です。
もし私たちが出て行って福音を伝えるなら、神様の手が解き、多くの人々が救われます。しかし、私たちが福音を伝えないなら、ある程度まで神様の手は縛られてしまいます。
もちろん、私たちが働かなくても神様は働くことができますが、多くの場合、私たちが働かない時、神様は何もしません。
ペテロは二つの方法で神様の手を解きました。彼はユダヤ人たちに福音を伝えました。
それでも、弟子たちはイエス様の命令に従わず、異邦人たちに福音を伝えませんでした。そこで、神様は直接行動を起こされました。神様はペテロに幻を示し、またコルネリオという異邦人に天使を遣わされました。
それは神様の理想ではありませんでした。神様の理想は、ペテロたちが積極的に異邦人たちに福音を伝えることでした。
それでも、その話の後、神様は天使を遣わず、人々を通して異邦人たちを救われました。弟子たちが福音を伝え、多くの人々が救われたのです。
さらに、ペテロは異邦人たちをユダヤ人の律法の要求から解放しました。それによって神様の手が解き、多くの人々が救われました。
とはいえ、この箇所では、その前後は全く異なります。そして再び、イエス様は語られます。
何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。(マタイ18:18)
でも、この場合、イエス様が意味されたことは何でしょうか。
私の意見ですが、もし相手があなたを傷つけ、謝らないなら、あなたはその人のために祈るべきです。そうすることで、私たちが神様の手を解き、神様は彼らの人生に働き始められます。
多くの場合、私たちは相手に対する怒りや苦々しい思いに縛られています。私たちは相手のために祈るのではなく、相手について祈っています。
「主よ、彼が何をしたかご覧になりましたか?信じられません。彼を罰してください。」
ところが、十字架の上で、イエス様は敵について祈られたのではありません。イエス様は彼らのために祈られました。
父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)
その祈りを通して、神様は彼らの人生に働き始め、さらに救いの業を行われました。
そのように、もし私たちが相手のために祈るなら、神様の手を解き、神様は彼らの人生に働き始められます。
もちろん、私たちが祈らなくても、神様は働くことができます。とはいえ、多くの場合、神様は働く前に私たちの祈りを待っておられることがあります。
けれども、私たちが苦々しい思いを持ち続けるなら、神様の手を縛ることになり、神様は私たちの人生にも、相手の人生にも働かれません。
怒りや苦々しい思いを手放すことは難しいものです。そのため、神様は私たちを支えてくださる兄弟姉妹たちを与えてくださいました。彼らは、和解をもたらすために助けてくれ、私たちのために祈ってくれます。
だから、イエス様はこう言われました。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(19-20)
あなたはどうですか。心の中で何か痛みを抱えているでしょうか。あなたは天の父の手を縛っているでしょうか。それとも、その手を解いているでしょうか。
つまり、あなたはただ相手について祈っているのでしょうか。それとも、相手のために心から祈っているのでしょうか。
