カテゴリー
マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章

仲間を赦さない悪い家来のたとえ話:憐れみか火か:どちらで塩気がつけられる?

マタイ18:21-35;マルコ9:49-50

マタイ、マルコ、ルカの三人は、同じ事件について語っています。その話をまとめることは本当に興味深いものです。

けれども、この話の最初に戻りましょう。それは、弟子たちが誰が一番偉いかを論じ合っていたことです。

おそらく論じ合う中で、多くの酷い言葉が交わされ、人々は深く傷ついたでしょう。そのため、イエス様は私たちが傷ついた時、どのように対応するべきかを教えてくださいました。

その後、ペテロがイエス様に質問をしました。おそらく他の弟子たちは彼を傷つけたことでしょう。それが初めてではなく、おそらくこれからもペテロは傷つけられることがあるでしょう。そのため、ペテロはイエス様に問いかけたのです。

主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ18:21)

おそらく、ペテロは相手を七回赦すことが寛容な態度であると考えたのでしょう。その時代、多くの先生たちは三回赦すことが適切であると教えていました。(「ただし、聖書にはそのような教えは記されていません。)

しかし、イエス様はこう答えられました。

七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。(マタイ18:22)

イエス様が意味されたことは、私たちが490回まで許さなくてはならないというわけではありません。むしろ、私たちは数えることなく許さなくてはならないのです。

そして、イエス様は有名なたとえ話を語られました。

ある王が、しもべの大きな借金を免除しました。けれども、そのすぐ後、そのしもべは別の人に出会いました。その以前、しもべはその人にお金を貸していたため、返済を要求しました。相手が払えなかったので、しもべはその人を牢に投げ込みました。

王はそのことを聞いたとき、そのしもべを呼びました。そして、しもべが来た時、王はこう言われました。

悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。(マタイ18:32-33)

そのため、借金をすべて返済するまで、そのしもべは牢に投げ込まれました。そしてイエス様はこう言われました。

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。(35)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

そのしもべにとって、仲間が返済しなければならなかった借金は大きなものでした。それは約4か月分の給料に相当しました。

けれども、その借金をしもべが王に返済しなければならなかった借金と比べると、非常に小さいものでした。その額は何億円にも及ぶものでした。

時々、人々は私たちを傷つけ、その傷は本当に深いものです。とはいえ、私たちの神様に対する負債の方がはるかに大きいのです。私たちは自分の罪が小さいものだと思うことがあるかもしれませんが、実際にはその罪は積み重なります。

もし、あなたが毎日罪を3回ほど犯すとすれば、それは1年間で約1000の罪になります。そしてその数字をあなたの年齢に掛けると、何千もの罪になるのです。

それにもかかわらず、神様はあなたの罪をすべて赦してくださいました。だからこそ、私たちも他の人々を許すべきです。

では、もしそうしなかった場合にはどうなるでしょうか。そのしもべが仲間を牢に投げ込んだ時、その仲間は罪悪感に浸りました。

私たちも、しばしば同じような行動を取ります。私たちは相手を許さず、その縁を切ります。そして私たちは、相手が罪悪感に浸ることを望んでいるのです。

しかし、例え話では、王はそのしもべの行動を知った時、彼を獄吏に引き渡しました。その時代、獄吏は囚人を見張るだけでなく、その囚人を拷問する役割を担っていました。

同じように、私たちが相手を許さないなら、神様が私たちをサタンに引き渡すことがあると思います。(異なる文脈ですが、第一コリント5:5をご参照ください。)

その結果、サタンは私たちを苦しめ、私たちは自分の怒りや苦々しい思いに浸ることになります。

なぜ神様はそのようなことをされるのでしょうか。それは、私たちを憎んでいるからでしょうか。違います。それは、私たちが悔い改めることを望んでおられるからです。

いずれにせよ、このたとえ話の後に、もしかしたらイエス様はこう言われたかもしれません。

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。(マルコ9:49)

つまり、もしあなたが神様の憐れみによって塩気を付けられないなら、火によって塩気を付けられることになります。あなたが悔い改めるまで、あなたの人生は惨めなものになるでしょう。

そして、イエス様はこう言われました。

塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。(マルコ9:50a)

イエス様は、私たちを地の塩と呼ばれました。私たちは、この世の人々を憐れみと恵みで味付けする役割を果たすべきです。

けれども、もし怒りや苦々しい思いを持ち続けるなら、私たちは塩気を失ってしまいます。そのため、イエス様は弟子たちと私たちにこう語られます。

あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(マルコ9:50b)

あなたはどうでしょうか。あなたを傷つける人に対して、あなたは塩の役割を果たしているでしょうか。

コメントを残す