この箇所を読んだとき、この言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私は神様のみ言葉を教えているからです。
わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネの福音書7:16-18)
この箇所を読むと、私は自分自身にこう問いかけます。「私の教えはどこから来るのだろうか。私自身から来るのだろうか。それとも、神様から来るのだろうか。
私が日曜日にメッセージを伝えるとき、それは私の栄光のためだろうか。私は教会の人々を感動させたいと思っているのだろうか。それとも、人々が神様に栄光を帰すよう願っているのだろうか。」
私たちクリスチャンは真理を伝える者であるべきです。そして、私たちには偽りがあってはなりません。牧師や聖書を教える者だけでなく、すべてのクリスチャンが真理を伝える者であるべきです。
しかし、真理を語る者になりたいなら、私たちは誰に仕えるのか決める必要があります。また、誰の栄光を求めるのか決める必要があります。
私たちは自分自身の栄光を求めているのでしょうか。それとも、神様の栄光を求めているのでしょうか。私たちは本当に神様に仕えているのでしょうか。それとも、口先で神様の名前を讃えているだけで、実際には自分自身に仕えているのでしょうか。
もし私たちが自分自身の栄光を求めているなら、または周囲の人々からの誉れを求めているなら、神様の福音を薄めてしまう誘惑に直面することになります。そして、もしかすると福音をまったく伝えない選択をしてしまうかもしれません。
あるいは、私たちはパリサイ人のようになってしまうかもしれません。表面上は神様に仕えているふりをしながら、実際には人々からの栄光を求めているのです。
あなたは誰に仕えていますか。あなたは誰の栄光を求めていますか。
