この箇所を読む時、もう一つの考えが心に浮かびました。
この話の中には、神様の言葉をよく知っている三人が登場します。
もちろん、律法の専門家は実在した人物ですが、残りの二人(祭司とレビ人)はフィクションの登場人物です。とはいえ、そのフィクションの登場人物にも、律法の専門家と同じ問題がありました。
この三人は神様の律法を熟知しており、もしイエス様が律法に関する質問をしたなら、彼らは即座に答えることができたでしょう。
しかし、彼らの心の中で、その律法の意味を本当に理解していたわけではありませんでした。そのため、たとえ話の中で、祭司とレビ人は怪我をした人を助けることがありませんでした。
彼らは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神を愛すること」と「隣人を愛すること」の本質を理解していなかったのです。むしろ、自分の愛の欠如に対して言い訳をしていたのです。
律法の専門家も同様でした。律法を読んで自分の弱さを見た時、彼は「イエス様、どうすればよいでしょうか。私は神様の基準を満たすことができません」とは言いませんでした。
代わりに、彼は自分の正しさを証明しようとしました。イエス様は彼の心の状態を示そうとされましたが、律法の専門家は律法の意味を議論したいと考えていました。
その結果、彼はイエス様にこう尋ねました。「では、私の隣人とは、誰のことですか。」
だから、イエス様はたとえ話を通して律法の専門家に自分の質問に答えさせました。そしてイエス様はこう言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」
そのあと、律法の専門家はどうしたのでしょうか。私たちにはわかりません。
おそらくルカは、私たち自身が自分の心を探ることを望んだのだと思います。私たちはイエス様の言葉を聞いて、どう応答するでしょうか。
聖書の知識を持つだけでは足りません。聖書の言葉を引用するだけでも足りません。その言葉に従い、その言葉を心に受け入れて、私たちの内面を変えていく必要があります。
もう一つのことを考えましょう。
このたとえ話では、サマリヤ人は祭司とレビ人の行動を目撃したでしょうか。もし目撃していたとしたら、彼らを見てどう感じたでしょうか。
周囲の人々は私たちを見る時、何を見るでしょうか。彼らはこう言うかもしれません。
「どうしてこの人は愛にこんなに満ち溢れているのだろう。どうしてこの人はこんなにも憐れみ深いのだろう。私もそのようになりたい。」
あるいは、彼らはこう言うかもしれません。「これがクリスチャンですか?私の方がずっと良い人間だと思いますけど。」
私たちは知識だけを持つことのないようにしましょう。むしろ、神様の言葉を心に受け入れ、その言葉に従いましょう。
日曜日に教会に行って宗教的な活動をするだけではなく、憐れみ深く、恵み深い人生を送りましょう。
そうすれば、私たちを見る時、周りの人々はイエス様を見ることができ、イエス様についてもっと知りたいと思うようになります。
