イエス様はパリサイ人たちを批判された後、律法学者たちにも言及されました。
イエス様はこう言われました。
おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。(ルカの福音書11:46)
この箇所では、私たちは律法主義がなぜそんなに悪いのかを学びます。
第一の理由は、律法主義が人々に耐えられないほどの重荷を負わせ、その重荷を取り除く希望が全くないことです。つまり、律法学者たちは神様の律法に多くの余計な規則を加えたのです。
例えば、律法では安息日に仕事をすることが禁じられていましたが、律法学者たちは「仕事」の定義を極めて細かく設定していました。
例えば、安息日に女性はアクセサリーを付けてはいけませんでした。なぜなら、もし彼女たちがアクセサリーを外そうとすると、それを手に持たなければならず、それが「重荷」とみなされるため、安息日の律法を破ることになってしまいます。
また、安息日に歩く距離にも制限がありました。もし 2.5キロメートル 以上歩いてしまうと、安息日の律法に違反することになってしまいます。
このような余計な規則は何百もありました。そして、これらの規則を破ると、律法学者たちから責められることになりました。
律法学者の規則は今では存在しませんが、今日のクリスチャンたちはどれほど他のクリスチャンに余計な規則を押し付けているでしょうか。聖書には記されていないにもかかわらず、それを守るべきだと考えるのです。
例えば、「酔ってはならない」という戒めではなく、「一切お酒を飲んではならない」と言います。
または、「映画を見てはならない。」
または、「踊ってはならない。」
こうした規則は、もう一つの問題につながります。それは、人を裁く態度です。
つまり、「あなたはその規則を守らないから、良いクリスチャンではない。」という考え方です。
さらに、「私は規則を守っている」と思うことで、プライドを感じます。
しかし、たとえ規則を守ったとしても、パリサイ人のように公義と神への愛と憐れみを忘れてしまいます。彼らは自分を正しい人間だと思いますが、神様の目にはパリサイ人や律法学者たちと変わりません。
けれども、律法主義の最も恐ろしい問題は、律法が正しいことと悪いことを教える一方で、正しいことを行う力を与えないことです。むしろ、人が失敗すると、律法は彼らを裁くばかりです。そのため、人々は何度も失敗し、やがて絶望してしまうのです。
イエス様の時代、多くの人々がそのように感じていました。彼らは律法学者の規則を守ろうとしましたが、できませんでした。
そして、彼らが律法学者に「どうすればよいでしょうか」と尋ねると、「もっと努力しなさい」と言われました。
つまり、律法学者たちは彼らを決して助けようとはしなかったのです。
たとえあなたが余計な規則を捨て、モーセの律法だけを守ろうとしても、その律法にはあなたを救う力はありません。最終的に、あなたはパウロのようにこう叫ぶでしょう。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)
しかし、イエス様の時代の人々とは異なり、パウロは希望を持っていました。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)
律法主義はあなたを救うことができません。律法はあなたを救うことができません。
でもイエス様は、十字架の働きを通して、あなたを救うことができます。イエス様は十字架で私の罰を受けたから。だから、パウロはこう言いました。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(8:1)
だから、律法主義を捨てましょう。プライドと絶望も捨てましょう。むしろ、イエス様とその十字架に向かいましょう。
そうすれば、私たちは赦され、神様を喜ばせる力を受けるのです。

One reply on “律法主義という問題”
[…] 別の記事で、私はどうして律法主義がそんなに悪いか話しました。この個所では、私たちはもう一つの律法主義の悪い点を見ます。律法主義では、人々はいつも抜け穴を探しているわけです。彼らはその律法に文字通りに守っていると思うかもしれないけど、その律法の精神をたびたび避けてしまいます。 […]
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