この箇所でのイエス様の言葉は、私の心に深く響きます。
「恐れてはいけません。」
そして、「恐れなさい。」
イエス様はこう言われました。
そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカの福音書12:4-5)
要するに、「人ではなく、神様を恐れなさい。」ということです。
人々はあなたの身体を殺すことができるかもしれません。しかし、神様はあなたを地獄に投げ込む権威を持っておられます。一瞬のうちに身体は死ぬかもしれませんが、霊的な死は永遠に続くのです。
では、私たちは恐れながら生きるべきなのでしょうか。
神様はじっと私たちを見つめ、私たちの失敗を待っておられるのでしょうか。そして、私たちが罪を犯したとき、神様は私たちを稲妻で打たれるのでしょうか。神様は人々を地獄に投げ込むことを喜んでおられるのでしょうか。
決してそうではありません。
イエス様はこのことも語られました。
五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(6-7)
私たちが神様の御性質を考えるとき、二つのことを覚えていなければなりません。それは、神様の聖さと神様の愛です。その二つの概念のバランスを保つことが重要です。
多くの人々は神様の愛に焦点を当てる一方で、神様の聖さを忘れがちです。
けれども、聖書において、人々が神様の栄光を目の当たりにすると、まず神様の聖さに気づきます。そして、神様の聖さを見たとき、自分の汚れを認識するのです。
その結果として生じるものは何でしょうか。
それは、恐れです。
なぜなら、彼らは神様の裁きを受けるに値することを理解し、自分が死ぬべき存在であると悟るからです。
ところが、その後、彼らは神様の愛を知ります。聖書には何度も、神様の最初の言葉として「恐れるな」と記されています。
この箇所においても、イエス様は私たちに同じことを教えられました。
まず、イエス様は「神様を恐れなければならない」と言われました。なぜなら、神様は聖なる方だからです。神様の聖さゆえに、罪は必ず裁かれなければなりません。
もしこの世に生きている間に、あなたが神様のもとに行かず、罪の赦しを得なければ、その罪は地獄で裁かれることになります。
しかし、それは神様の望みではありません。神様は私たちを深く愛しておられ、私たちの最善を願っておられます。
神様の目には、私たちは取るに足りない存在ではありません。それどころか、神様は私たちの名前を知り、私たちの人生の細部に至るまでご存知なのです。
神様は、あなたの罪を背負うためにイエス様をこの世に送られました。それほどまでに、あなたを愛しておられます。もしあなただけが罪を犯していたとしても、神様はイエス様を送られたことでしょう。
私たちがこのことを実感するとき、私たちの最初の恐れは、神様への圧倒的な愛へと変えられます。
私たちはもはや神様を恐れる必要はなく、また、その他の何かを恐れる必要もありません。もし私たちが神様に信頼するなら、この世で何が起ころうとも、私たちには天国における確かな希望があるのです。
だからこそ、ヨハネの言葉を心に留めましょう。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。
それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。
恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)
