イエス様は優れた教師であるだけでなく、優れた論者でもありました。この個所では、イエス様は再びパリサイ人たちと、安息日に人を癒すことが合法的かどうか議論されています。
パリサイ人たちの反応は少し興味深いものです。イエス様が彼らに対して、安息日に癒すことが正しいか、そうでないかを問われたとき、彼らは黙ってしまいました。そこで、イエス様は水腫を患っている人を癒されました。
その後、イエス様はパリサイ人たちにこう問いかけられました。
自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。(ルカの福音書14:5)
彼らの答えは?
彼らは答えることができなかった。(6)
もしかすると、彼らはこのことわざを思い浮かべたのかもしれません。
「あなたが黙っていて、周囲の人々に馬鹿者だと思われる方が、あなたの言葉によって、周囲の人々が馬鹿者だと明確に理解するよりも良い。」
けれども、ここで再び重要な真理が明らかになります。
パリサイ人たちは何度もイエス様と議論を試みました。そして最終的に、彼らはイエス様の議論に対して何も答えることができませんでした。イエス様はその議論に勝利されました。
では、パリサイ人たちはイエス様の教えを信じるようになったでしょうか。安息日に人を癒すのが正しいことだと認めたでしょうか。
残念ながら、そうではありません。むしろ、彼らはイエス様を殺そうと企むようになりました。
つまり、単なる議論によって人々をイエス様に信じるよう導くことはできません。あなたが議論を通じて、イエス様を信じるべき理由や聖書を信じるべき理由、そしてキリスト教が正しい理由を説明することは可能です。
あなたはその議論に勝つことがあるかもしれません。相手がパリサイ人たちのように黙るかもしれません。それでも、どれだけ議論をし、証拠を示しても、イエス様を拒絶する人は必ずいます。
かつてラジオ番組で、あるクリスチャンが哲学者と議論を交わしました。その哲学者はこう言いました。
「クリスチャンたちは聖書の真実性を証明しようとするとき、いつも聖書を引用します。それは循環論法ですよ。証明したいことを最初から仮定してはいけません。」
そのクリスチャンはこう反論しました。
「あなたはなぜ聖書が一冊の本だと思うのですか。実際には聖書は66冊で構成されています。さらに、著者は40人以上に及び、1000年以上をかけて書かれました。
ですから、一人の著者の言葉を使って別の著者の言葉を検証することは循環論法ではありません。全く異なる出所を利用しているのです。」
哲学者は「違う、違う、違う」と言い続けました。
そして、クリスチャンはこう尋ねました。「なぜ違うと言うのですか。私の議論に答えることができますか。それとも単に信じないだけですか。」
哲学者は「私はそれを信じない」と断言しました。
その哲学者は答えることができませんでした。彼はパリサイ人たちのように沈黙しました。とはいえ、おそらく彼は他のクリスチャンたちと話すときでも、同じ議論を繰り返していたことでしょう。
では、私たちはノン・クリスチャンと議論を交わすべきではないのでしょうか。彼らの疑問に答えない方が良いのでしょうか。そうではありません。
ペテロはこう記しました。
むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(第一ペテロ3:15)
答えを心から求めている人もいるでしょう。そして、もしあなたがその答えを与えるなら、彼らはクリスチャンになるかもしれません。しかし、単なる議論によっては、誰も神の国に入ることはできません。
人々の心を開くことができるのは聖霊様だけです。ですから、人々と話すとき、彼らの質問に答えるだけでなく、彼らのために祈りましょう。
そうすることで、聖霊様が彼らの心を変え、彼らは救われるかもしれません。
