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ルカの福音書 ルカ16章

人の前で義を装う自分を正しいとする?

ルカの福音書16:15-18

パリサイ人の大きな問題の一つは、独善的な態度でした。

彼らは細かい規則に従っていましたが、自分の明白な罪を認識することができませんでした。そして、イエス様がその罪を指摘されたとき、彼らはそれを否定しました。「私たちは正しい人だ」と言い張ったのです。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。

人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。(ルカの福音書16:15)

この話の中で、イエス様は彼らのお金への執着を裁かれました。

けれども、パリサイ人たちはこう考えました。 「でも、私の財産は神様の祝福のしるしのはずだ。イエス様は何を言っているのだろう?」

ところが、彼らの心の中では、お金が偶像となっていました。彼らは神様よりもお金を愛していたのです。

あるいは、彼らはお金以上に、ただ一つのものを愛していたかもしれません。それは、周囲の人々からの称賛です。だからこそ、彼らは施しをするとき、人々に見てもらえるように確認しました。

多くの人々はお金や世間からの称賛を求めますが、神様の目にはそれらは忌み嫌われるものです。

もちろん、お金や称賛そのものが悪いわけではありません。しかし、それらが人生の目的となり、さらにそれらが私たちの神となってしまうなら、神様との関係を妨げる障害となります。

パリサイ人たちは、人前で正しい行いを示すだけでなく、ほかにも多くのことをしていました。彼らは過剰な規則を強制しながら、自ら抜け道を見つけ、それを正当化して自分自身を誇りました。

例えば、イエス様は彼らの姦淫に関する考えを非難されました。あるパリサイ人は、その律法を回避するために、自分の妻たちと離婚し、すぐに別の女性と再婚しました。

けれども、イエス様は彼らにこう言われました。

だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。(18)

しかし、最も問題なのは、彼らが罪人と関わることなく、ただ裁いたことです。彼らは律法を利用して人々を裁きましたが、罪人の救いを望んでいませんでした。むしろ、彼らは「人々から天の御国を遮っていました。」(マタイ23:13)

それでも、ある人々はパリサイ人の妨害を乗り越え、神の国へ入っていました。

つまり、パリサイ人たちが拒絶した人々こそがイエス様に触れられ、彼らの余計な規則を押し切り、神の国へと導かれていたのです。(ルカ16:16)

あなたはどうでしょうか。あなたの心には何があるでしょうか。外側は清く見えても、あなたの心は汚れていないでしょうか。

あなたは独善的な態度を持ち、自分の罪を認識できないでいるでしょうか。

私たちがパリサイ人のようにならないように。むしろ、イエス様が私たちの罪を明らかにし、神様との関係を阻む私たちのプライドの壁を打ち砕いてくださるように祈りましょう。

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