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ダビデの子。神の子。

多分、イエス様はパリサイ人たちやサドカイ人たちの偽善的な態度に嫌気が差していたので、彼らを黙らせるためにこの質問を投げかけられたのでしょう。

あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。(マタイ22:42a)

パリサイ人たちや律法の専門家にとって、それは非常に簡単な質問でした。そのため、彼は即座に答えました。

ダビデの子です。(マタイ22:42b)

そして、イエス様は彼らの「キリスト」(または「メシア」)に対する考え方に異議を唱えられました。イエス様は次のように尋ねられました。

それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、「主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」」と言っているのですか。

ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:43-45)

その答えは簡単です。イエス様は人の子(つまりダビデの子)であるだけでなく、神の子でもあります。

人間として、イエス様はダビデの子孫でした。しかし、神の子として、イエス様はダビデの主でした。

けれども、パリサイ人たちや律法の専門家はそのことを理解することができませんでした。もしかすると、彼らは心の中でそのことを理解したくないと思っていたのかもしれません。

今なお、多くの人々はパリサイ人たちや律法の専門家のように考えています。彼らはイエス様を人間として認めます。そして、イエス様が良い方であることを認めます。もしかすると、イエス様を素晴らしい先生として認めることもあるかもしれません。

しかし、彼らはどうしてもイエス様が神の子であるとは認めようとしません。

イエス様は人の子だけではなく、神の子でもあります。だからこそ、イエス様は私たちの愛、信頼、そして服従にふさわしい方です。さらに、イエス様だけが天の父への道です。

さて、あなたはイエス様をどのように考えるでしょうか。彼は一体誰だと思いますか。

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神の国に入りたいと思うと

イエス様を尋問していた人々の中に、イエス様の言葉に深く感動した一人の人物がいました。そこで、彼はイエス様にこう尋ねました。

すべての中で、どれが第一の戒めですか。(マルコ12:28)

イエス様はこのように答えられました。

第一の戒めはこれです。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

第二の戒めはこれです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

これらよりも重要な命令は、ほかにありません。(マルコ12:29-31)

この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。(マタイ22:40)

要するに、もしあなたが完全にその二つの戒めを守ることができるなら、実はすべての戒めを守ることになるということです。なぜなら、すべての戒めは、その二つの戒めに基づいているからです。

すると、イエス様に質問した人はこう答えました。

先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。

そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。(マルコ12:32-33)

この人は、パリサイ人たちや律法の学者たちとは違い、とても重要なことを理解したようです。それは、儀式的な聖さだけでは不十分だということです。

もし私たちが神様を喜ばせたいなら、律法に文字通り従うだけではなく、律法の精神にも従わなければなりません。そして、もし私たちがその二つの戒めに従わないのなら、私たちの他のすべての良い行いには、全く意味がないのです。

その人がそのことをよく理解したので、イエス様は彼にこう言われました。

あなたは神の国から遠くない。(マルコ12:34)

イエス様が言っていないことに気づいてください。

イエス様は「ああ、良かった。あなたがそのことをよく理解しているから、天国へようこそ。」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。

どうしてでしょうか。

それは、その人がもう一つの重要なことを理解しなければならなかったからです。それは何だったのでしょうか。

それは、その二つの戒めを完全に守ることができる人は誰もいないということです。だからこそ、私たちには救い主が必要なのです。その人がその必要性を理解し、イエス様を信じていたなら、イエス様はその人に「神の国にようこそ」と言われたでしょう。

私たち皆、この真理を理解しなければなりません。自分の良い行いだけでは、天国に入れる人は誰もいません。いくら努力しても、私たちは完全に神様を愛することや、周りの人々を愛することに失敗します。

そういうわけで、イエス様はこの世に来られました。イエス様は十字架で私たちの罰を受けてくださいました。しかし、三日目にイエス様はよみがえられました。そのため、イエス様を信じてこそ、私たちは救われるのです。

あなたはイエス様を信じていますか。もしイエス様をあなたの主としてまだ受け入れていないのであれば、今日そうしてみませんか。

イエス様、私は罪を犯しました。私は心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くしてあなたを愛してきませんでした。隣人を自分自身のように愛してきませんでした。

むしろ、私の行為を通して、あなたを傷つけ、周りの人々も傷つけました。どうかお赦しください。

あなたが十字架で私の罰を受けてくださったことに感謝します。私の主となってください。アーメン。

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聖書と神様の力を理解しないと

ある英語の子どもの歌は、サドカイ人たちをこのように描写しています。

I don’t want to be a Sadduccee.
(サドカイ人になりたくないよ。)
‘Cause, a Sadduccee is sad, you see.
(だって、サドカイ人たちは悲しい人たちだから。)

それは少しくだらないだじゃれですが、どこかに真実が含まれています。

最終的に、サドカイ人たちは希望を持たない人々でした。なぜなら、彼らは復活を信じていなかったからです。彼らは死を迎えると命が終わると考えていました。

その考え方は、神様に対する彼らの思いや、自分の人生観、そして聖書に対する理解に影響を与えてしまいました。

彼らは神様の力を理解しておらず、神様の愛も知りませんでした。また、神様が私たちと永遠に共に生きたいと望んでおられるという概念を全く持っていませんでした。

彼らは墓に入ると命が終わると考えていたため、この世のもの、つまり力とお金に執着していました。

このような考え方は、彼らの聖書の理解にも影響を与えました。彼らは聖書の最初の5冊(創世記から申命記まで)だけを神様の言葉として受け入れていました。預言者の書や詩篇などは神様の言葉として受け入れなかったのです。

そこで、彼らはイエス様のところに行き、パリサイ人たちを困らせた質問をイエス様に尋ねました。それはくだらない質問でしたが、その時代のユダヤ人たちの文化では、万が一(もしくは、億が一と言えるでしょうか)その話が現実になる可能性があると考えられていました。

サドカイ人たちはこう尋ねました。

先生。モーセは、「もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない」と言いました。

ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。

では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。(マタイ22:24-28)

それは非常にくだらない疑問に思えるでしょう。それは非現実的であり得ないと思われます。

ともかく、イエス様は彼らに対して非常に厳しく答えられました。

あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マタイ22:29-30)

そして、イエス様は出エジプト記の箇所を引用されました。

サドカイ人たちはその箇所をよく知っていたはずですが、彼らはその言葉を決して深く考えたことがなかったでしょう。だからこそ、イエス様の言葉は彼らに強い衝撃を与えたに違いありません。イエス様はこう言われました。

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(31-32)

神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とは言われませんでした。神様はこう言われました。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。今なお、わたしは彼らの神である。」

要するに、アブラハムやイサクやヤコブの魂は今も生きています。だから、イエス様はサドカイ人たちが受け入れていた聖書の箇所を用いて復活を証明し、彼らの議論を完全に打ち砕かれました。

それでは、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様を私たちが作った箱に閉じ込めることはできません。

しかし、サドカイ人たちは神様をそのような箱に閉じ込めてしまいました。彼らは神様の力を理解せず、神様が人々を復活させる力を持つことを信じなかったのです。

なぜ彼らは神様の力を理解できなかったのでしょうか。それは、彼らが聖書を正しく理解していなかったからです。

だからこそ、私たちはサドカイ人たちのようにならないように注意する必要があります。聖書を学び、その真意を理解するために努力しましょう。

もし聖書が神様についての私たちの考えに反することを語っているなら、サドカイ人たちのようにその言葉を拒否するのではなく、むしろ受け入れるようにしましょう。

そうすることで、私たちは神様をさらに深く知り、神様との親しい関係を築くことができるのです。

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神様の物を返す

私は税金を支払うのが大嫌いです。毎年3月に確定申告を書くのはとても大変です。その時に少し返金はされるものの、6月になると税金の負担が非常に大きくなります。

私はマンションを購入したため、毎年その税金を支払わなければならない上に、市民税や県民税も負担しなければなりません。

税金を支払うのが好きな人などいないでしょう。でも、イエス様の時代ではユダヤ人たちは特に支払いたがりませんでした。それは、彼らがイスラエルを征服していたローマ帝国に税を納めなければならなかったからです。

そこで、パリサイ人たちとヘロデ党の者たちは、イエス様を罠に陥れるための完璧な質問を思いついたのです。

彼らはこう尋ねました。

先生。私たちは、あなたがお話になること、教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。

ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。(ルカ20:21-22)

もしイエス様が「税金を払わなくてよい」と言えば、ヘロデ党の者たちはその言葉をローマ帝国に伝え、イエス様は反逆者として捕らえられたでしょう。

一方で、イエス様が「税金を払うべきだ」と言えば、ユダヤ人の間でイエス様の人気は失われてしまったかもしれません。

ところが、イエス様は彼らの意図をよく知っておられました。そこで、イエス様は再び彼らの質問に別の質問で答えられたのです。

まず、イエス様は彼らに税金を支払うための銀貨を見せてくれるよう頼みました。そして、イエス様は彼らにこう尋ねられました。

だれの肖像と銘がありますか。(ルカ20:24)

彼らは、「カエサルのものです」と答えました。

すると、イエス様はこう言われました。

では、カエサルのものはカエサルに、神のものは、神に返しなさい。(ルカ20:25)

イエス様が意味されたのは何だったでしょうか。

「あなたたちはカエサルのお金を使っていますね。そのお金を使うということは、そのお金がカエサルに属するものだという証拠ではありませんか?だから、カエサルに属するものはカエサルに返しなさい。」

けれども、イエス様は続けてこう言われました。

「でも、あなたたちは、もっと大切なことを覚えていなくてはいけません。神様に属するものは神様に返しなさい。」

この言葉を通して、イエス様はローマ帝国の主張を巧みに論破すると同時に、ユダヤ人たちに重要な教訓を教えられました。

ローマ帝国は、カエサルが神であると主張していました。実際、その銀貨にはそのような言葉が刻まれていました。しかし、イエス様はカエサルと神様を明確に区別されました。

「カエサルという一人の人間には、彼に属するものを返しなさい。けれども、真の神には、神に属するものを返しなさい。」

私はイエス様のこの2つ目のポイントについてお話ししたいと思います。ローマ帝国の銀貨にカエサルの肖像と銘が刻まれていたように、私たちにも神様の肖像と銘が刻まれています。

聖書によれば、神様は人を神のかたちとして創造されました。(創世記1:26-27)

そして、パウロはこう言っています。

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(第二コリント3:3-4)

神様はご自身の名前を私たちの心に記し、私たちが神様に属していることを明確にしてくださいました。時には、私たちに刻まれた神様の肖像が、私たちの罪によって歪んでしまうことがありますが、パウロはこう書いています。

私たちはみな。。。鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられています。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

それでは、私が言おうとしているのは何でしょうか。

私たちは神様に属しています。だから、私たちは神様に属するものをお返ししなければなりません。それは単なるお金ではありません。それは私たちの命そのものです。

あなたは神様に属するものを、神様にお返ししますか。

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王子の婚宴のたとえ話:神様の国はいること

この話では、イエス様は私たちがイエス様を拒絶する危険性について警告し続けておられます。

このたとえ話では、ある王が自分の息子のために結婚の披露宴を催し、多くの人々を招待しました。ところが、その日が来たとき、招待されたお客さんたちは様々な理由をつけて来ませんでした。

王はもう一度彼らにしもべを遣わしましたが、彼らは気にもかけず、自分の用事であちこちへ行きました。

さらに、ある人々はそのしもべたちを捕まえて、侮辱し、殺してしまいました。

この話は、以前のたとえ話と同じようにイスラエルを描写しています。

とはいえ、それだけではなく、この話は福音に対する多くの人々の反応も描写しています。

神様はご自身の国に入るように私たちを招待します。神様は私たちのためにすべてを整えてくださいました。私たちがしなければならないことは、ただその招待に応えることだけです。

それでも、多くの人々はその招待を軽んじて、自分の道を行き続けます。さらに、ある人々は神様のメッセンジャーを侮辱し、迫害します。

その結果はどうなるのでしょうか?裁きです。死です。

しかし、この話には驚くべきどんでん返しもあります。王は他の人々を招待し、彼らが来た後に披露宴が始まりました。

ところが、その中に婚礼の礼服を着ていない人がいました。彼は傍若無人で、その王の要求を無視し、普通の服を着ていました。そのため、その王は彼のところに行き、こう言いました。

友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。(マタイの福音書22:12)

その人には良い言い訳がなかったので、彼は「人が泣いて歯ぎしりする暗闇」に放り出されました。(13)

このように、多くの人々は神様の招待を聞き、神の国に入りたいと願います。けれども、彼らは神様の条件を認めず、自分の方法で入ろうとします。

では、神様の条件とは何でしょうか。それについては、ヨハネが私たちに教えてくれます。

その証とは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(第一ヨハネ5:11-12)

要するに、神の国に入りたいのであれば、イエス様を着る必要があるということです(ガラテヤ3:27)。

「イエス様を着る」とはどういう意味でしょうか。それは、イエス様をあなたの主として受け入れることです。

そうすることで、神様が私たちを見るとき、私たちの罪をではなく、キリストの義を見るのです。なぜなら、十字架でイエス様は私たちの罪の代価を支払ってくださったからです。

しかし、多くの人々はその条件を受け入れることを拒む傾向があります。彼らは自分の方法で神の国に入ろうとします。けれども、それでは神様の招待とイエス様の十字架の働きを軽んじることになります。

私たちはそのような行動を取るべきではありません。もしそうするなら、私たちは神様を侮辱することになるのです。

だからこそ、あなたには選択があります。あなたは神様の条件を受け入れ、神の国に入ることができます。または、自分の方法を選び、地獄に向かうことになります。他に選択肢はありません。

あなたはどうしますか。神様の条件を受け入れて、神様に近づこうとしますか。それとも、自分の方法で神様のもとに来ようとしますか。

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悪い小作人のたとえ話:イエスを拒絶すると

イエス様はユダヤ人のリーダーたちに不信を責めた後、彼らが悔い改めない場合にどうなるかを警告されました。

このたとえ話はイザヤ書5章に似ています。イザヤ書の箇所では、神様がご自分の造られたぶどう園について話されています。そのぶどう園は北イスラエル王国とユダ王国を象徴しています。

その話でも、イエス様の話でも、その主人は受け取るべきぶどうを受け取れませんでした。けれども、イエス様の話では、特に農夫たちを責めておられます。

もちろん、その農夫たちは、預言者たちやイエス様を拒絶したユダヤ人のリーダーたちを表しています。彼らはイスラエル人の霊的な健康を守る責任を持っていました。

リーダーたちがその責務を果たしていれば、イスラエルは霊的な実を結んでいたでしょう。ところが、彼らは堕落し、その責任を果たしませんでした。

なぜでしょうか。それは、神様を重んじず、自分自身のために生きたからです。彼らはお金や権力、人々からの栄誉に執着していました。

だからこそ、イスラエルの民が実を結ばなかったのは当然のことでした。

そこで、神様は彼らにしもべを送りました。イスラエルの歴史の中で、神様は何度も預言者たちを遣わされました。預言者たちはイスラエル人たちに警告し、訓戒しました。

しかし、そのリーダーたちは幾度となく預言者たちを拒絶し、迫害しました。さらには、預言者たちを殺してしまうことさえありました。

最後に、神様は御自身のひとり子を送ってくださいました。けれども、そのリーダーたちは御子を殺そうと計画していたのです。

だから、イエス様がユダヤ人たちに「主人がその農夫たちをどうすると思いますか?」と尋ねられると、彼らはこう答えました。

その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば、収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。(マタイ21:41)

それでも、ユダヤ人たちはそんな悪者が存在することに驚きました。そこで彼らは「そんなことが起こってはなりません。」と言いました。(ルカ20:16)

ところが、イエス様は次のように答えられました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には、不思議なことだ。」

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42-44)

イエス様が意味されたのは何でしょうか。イエス様はすべてのものの基礎です。イエス様は要の石です。

要の石とは、建物の最初に据えられる石を指します。その建物は要の石の周りに建てられます。この石は非常に重要であり、この石が少しでも歪むと、建物全体が歪んでしまいます。

同じように、神の御国、そして私たちの人生もイエス様の周りに建てられなければなりません。そうしないと、すべては歪んでしまいます。

しかし、ユダヤ人のリーダーたちはイエス様を拒絶したため、神の国は彼らが軽蔑していた人々に与えられました。つまり、収税人や売春婦、異邦人に与えられたのです。なぜなら、彼らはイエス様を救い主として受け入れたからです。

一方で、そのリーダーたちは裁かれ、すべてを失ってしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は何の上に建てられているでしょうか。お金でしょうか。財産でしょうか。力でしょうか。この世のものでしょうか。それともイエス様でしょうか。イエス様はあなたの要の石でしょうか。

神様はあなたに命を与えてくださいました。あなた自身も、あなたが持つものすべても神様に属しています。そして、神様はその御国のために、あなたに霊的な実を求めておられます。

しかし、自分のためだけに生きているなら、その実を結ぶことはできません。そして、ユダヤ人のリーダーたちのように要の石を拒絶すれば、裁きを受け、すべてを失ってしまいます。

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

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あなたの間違った考え方を認めないと

私たちの考え方が間違っていると分かる時、時にはそれを認めるのが難しいものです。私自身もそれを認めたくないことがあります。どうしてでしょうか。

それは、プライドがあるからです。「私は間違っていた」と言うのは簡単ではなく、謙虚な態度が求められます。

けれども、もし私たちが神様との関係や人々との関係を守りたいと思うなら、その謙虚な態度が不可欠です。

イエス様の時代の宗教的なリーダーたちは、このような態度を持っていませんでした。イエス様は何度も彼らの間違った考え方を指摘されましたが、彼らはどうしてもそれを認めようとはしませんでした。特にイエス様の最後の週(つまり、十字架にかかる前)に、その姿が明らかになります。

イエス様が神殿から商人たちと両替人を追い出された後、祭司長たちや民の長老たちがイエス様のところに来て、こう尋ねました。

何の権威によって、これらのことをしてるのですか。だれがあなたにその何の権威を授けたのですか。(マタイ21:23)

いつものように、イエス様は彼らの質問に対して別の質問で答えられました。

ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。(マタイ21:25)

それを聞かれた時、彼らは板挟みになってしまいました。

もし彼らが「天から」と答えたなら、イエス様は「では、どうしてヨハネの言葉を信じなかったのでしょうか。ヨハネは私がメシアであることを語りました。もしその言葉を受け入れるなら、私の権威がどこから来るのかが理解できるはずです。」と言われたでしょう。

その一方で、彼らが「人から」と答えたなら、周りの群衆は彼らに怒りを向けたでしょう。なぜなら、群衆はヨハネが本当の預言者であると信じていたからです。

そこで彼らは「分かりません」と答えました。

すると、イエス様は「もし私の質問に答えないなら、私もあなたの質問に答えません。」と仰いました。

その後、イエス様は彼らにたとえ話を語られました。その話では、あるお父さんに二人の息子がいました。お父さんが長男に何かを頼んだ時、最初はその息子が「それをしたくありません」と答えましたが、最終的にはその仕事をしました。

一方で、次男は頼まれた時に「はい、します。」と言いましたが、結局その仕事をしませんでした。

このたとえ話を通して、イエス様は宗教的なリーダーたちを、かつて罪を犯していた罪人たちと比較されました。

宗教的なリーダーたちは正しい人たちに見えましたが、心の中では神様に背いていました。

彼らがバプテスマのヨハネを見た時、彼が頭がおかしいと思いました。しかしすぐに分かったのは、ヨハネのミニストリーを通して多くの人々の人生が変わったということです。神様がヨハネを通して働かれていることは明らかでした。それでも、彼らはプライドのゆえにヨハネを拒絶しました。

さらに、彼らはイエス様をも見ていました。彼らはイエス様の奇跡を目の当たりにし、イエス様の教えを聞きましたが、それでもイエス様を拒絶しました。

イエス様が彼らの間違った考え方を暴露し、彼らがイエス様の議論に反論することができなくても、彼らは自分の考えに固執しました。

一方で、このリーダーたちに見下されていた罪人たちは、かつて神様に背き、人々をだましたり、自分の体を売ったりしましたが、ヨハネやイエス様の言葉を聞くと、謙虚に自分の罪を認め、悔い改めました。

そこで、イエス様は宗教的なリーダーたちにこう言われました。

まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。(マタイ21:31)

あなたはどうでしょうか。自分が間違った時、それを認めることができるでしょうか。プライドは人間関係を壊します。けれども、さらに深刻なのは、プライドが神様との関係を壊してしまうことです。

だからこそ、謙虚な心を保ちましょう。相手から訓戒された時は、その言葉を素直に受け入れましょう。そして、自分が間違ったと気づいた時には、すぐにそれを認めましょう。

そうしなければ、あの宗教的リーダーたちのように、私たちは周りの人々から距離を置かれ、さらには神様からも離れてしまうかもしれません。

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イエス様を見るとき、イエス様の声を聞くとき

多くの人々は「神様を信じる」と言いますが、イエス様を信じていません。

しかし、もしあなたが本当に神様を信じるなら、イエス様を拒絶することはできません。この箇所で、イエス様はこう語られました。

わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネの福音書12:44-46)

つまり、イエス様を信じることは、神様を信じることです。イエス様を見ることは、神様を見ることです。

そして、イエス様はこう語られました。

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。(49-50)

だから、イエス様の言葉を聞くことは、神様の言葉を聞くことです。なぜなら、イエス様は神様の言葉を正しく伝えられるからです。

したがって、もしあなたがイエス様の言葉を拒絶するなら、それは実際には神様の言葉を拒絶することになります。さらに、もしイエス様を拒絶するなら、それは神様ご自身を拒絶することなのです。

そこで、イエス様はこう語られました。

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。(48)

私たちがイエス様の言葉を聞くと、その言葉によって私たちは裁かれます。

もしイエス様を信じるなら、あなたは光と命を見つけるでしょう。 しかし、イエス様を拒絶するなら、あなたが見つけるのは暗闇と裁きです。

あなたはどう選ぶでしょうか。

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誰からの栄誉を求めるか

聖書の中で、これは最も切ない言葉の一つです。

しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じたものが多くいた。

ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。(ヨハネの福音書12:42-43)

この箇所では、私たちは隠れた信者たちの存在を見ます。彼らはイエス様の奇跡を目の当たりにし、その教えを聞いて信じるようになりました。

それでも、彼らは誰にもそのことを打ち明けませんでした。なぜなら、会堂から追放されることを恐れていたからです。その文化において、会堂からの追放はユダヤ社会全体からの孤立を意味していました。

彼らの決断が示したのは、神様を喜ばせることよりも、周囲の人々の歓心を買うことを優先したということです。

もしサタンがあなたがクリスチャンになることを阻止できないなら、あなたが自分の信仰を周囲の人々に伝えることを妨げようとします。

どのようにしてそれを行うのでしょうか。サタンはあなたに問いかけます。 「もし周囲の人々に伝えたら、彼らはどう反応するだろうか。」

時には、その反応は明確です。あなたの友人や家族があなたを拒絶するかもしれません。議員たちもこの板挟みに直面していました。もしイエス様を信じると公言すれば、彼らは会堂から追放されることになるでしょう。

けれども、多くの場合、私たちは相手がどのように反応するか分かりません。それでも、悪い反応を恐れてしまいます。

私が中学生や高校生だった頃、私も同じように感じていました。高校2年生になるまで、私は自分がクリスチャンであることを友人に伝えませんでした。なぜなら、彼らの反応を恐れていたからです。

しかし、神様は私たちがそのように生きることを望んではおられません。神様は、私たちが周囲の人々に触れ、影響を与えることを望んでおられます。けれども、もし私たちが恐れに支配されるなら、それを実践することはできません。

私たちの信仰のゆえに、私たちを拒絶する人がいます。すべての人が私たちを愛するわけではありません。イエス様は完全な方であったのに、彼を憎む人がいました。

どうして私たちは違う反応を期待するべきでしょうか。

だからこそ、相手が私たちを拒絶することを心配しないでください。私たちの信仰を大胆に伝え、その結果を神様に委ねましょう。

イエス様の言葉を忘れずに心に留めましょう。

ですから、誰でも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を知らないと言います。(マタイ10:32-33)

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遅すぎる前に

時には、人々はイエス様に従うことを先延ばしにします。なぜなら、「あとでできる」と思ってしまうからです。しかし、それには危険が伴います。

この箇所では、イエス様が十字架を前にして、覚悟を決め、叫ばれました。

父よ。御名の栄光を現してください。(ヨハネの福音書12:28a)

そして、天の父は、すべての人の前で答えられました。

わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。(28b)

イエス様の周りにいた人々は、その声を聞きましたが、正しく聞き取ることができなかったようです。

ある人々は、「雷が鳴ったのだ」と言いました。

また、別の人々は、「天使があの方に話しかけた」と言いました。

なぜ彼らは天の父の言葉を理解できなかったのでしょうか。

ヨハネはこのことを解説します。

それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。

「主よ。私たちが聞いたころを、誰が信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。

「主よ。彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒すこともないように。」

イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。(38-41)

私は以前の記事でこの箇所について説明しましたが、基本的に彼らが天の父の声を理解できなかった理由は、すでにイエス様に対して頑なな心を持っていたからです。

ある人々にとって、イエス様が以前大工の仕事をしていたという事実は、彼らの持つメシア像と一致しませんでした。

また、別の人々がイエス様を拒絶した理由は、イエス様が彼らを宗教的な偽善者として明らかにされたことでした。

さらに、イエス様の教えが彼らの伝統や宗教的な規則と対立していたため、それを理由にイエス様を拒む人々もいました。

そのため、イエス様が奇跡によってご自身のメシアとしての資格と、その言葉の真実性を証明されても、彼らは「悪魔の力によってその奇跡を行った」と言い張りました。

この箇所では、彼らはこう言いました。 「まさか、それが神様の声だとは思えない。ただの私の想像だろう。きっと雷の音に違いない。」

けれども、彼らが自分の目と耳を閉ざせば閉ざすほど、心はますます頑なになり、霊的にも盲目になっていきました。

そこで、イエス様はもう一度彼らに警告されました。

もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。

闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。(35-36)

要するに、「あなたの時間は限られています。すぐに心を開かなければ、永遠に盲目になってしまいます。まだ可能なうちに、私と私がもたらす光を信じなさい。」ということです。

イエス様は、あなたにも同じことを語っておられます。人々がイエス様のもとへ引き寄せられ、救われるために、イエス様は地上から上げられ、十字架にかけられました。

けれども、もしあなたが目と耳を閉ざし続けるなら、たとえ真理が目の前にあっても、それを認識することはできません。そして、そのときには、救いの機会は失われてしまいます。

だからこそ、パウロはこう語りました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様に仕えるために

イエス様がエルサレムに目立つ形で入城されたこと、また神殿から業者や両替人を追い出されたことによって、エルサレム中でイエス様は話題となりました。そのため、初めてエルサレムを訪れた人々がイエス様に会いたいと願うのは、自然なことでした。

この話では、ユダヤ教に改宗しようとしていたギリシャ人たちが、イエス様に会いたいと願いました。おそらく、ピリポがギリシャ語の名前だったため、彼らは最初にピリポのもとを訪ねたのでしょう。

そこで、ピリポはアンデレとともに、彼らをイエス様のもとへ連れて行きました。(アンデレは、人々をイエス様に紹介することが多かった人物です。)

イエス様は彼らに会ったとき、次のように語られました。

人の子が栄光を受けるときが来ました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12:23-24)

イエス様はご自身の死と復活について語られていました。イエス様がこの世におられる限り、その働きはイスラエルに限定されていました。けれども、イエス様が死んで復活された後、聖霊を通してその働きは世界中に広がり、すべての国と民族に及びました。

そして、イエス様はさらに続けて語られました。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至ります。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。

わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。(25-26)

イエス様は、ごく当たり前のことを語ると同時に、非常に逆説的なことも言われました。

では、その当たり前のこととは何でしょうか。イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様についていかなければなりません。また、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様がおられる場所にいなければなりません。

もしあなたが常にイエス様から離れているなら、イエス様に仕えることは困難です。だから、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様の近くにいて、イエス様が望まれることを見極めなければなりません。

けれども、イエス様と共に歩みたいと願うなら、ときには愛する者や、執着しているものを手放さなければならないこともあります。だからこそ、イエス様は逆説的なことを言われました。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至る。」

もちろん、私たちはすべてを憎むべきだというわけではありません。しかし、ときにはイエス様に従うために、私たちは愛する者や、この世のものを手放さなければならないことがあります。

たとえば、イエス様が「あなたの国を離れ、別の場所へ行きなさい」と言われるなら、私たちはその御声に従わなければなりません。

また、イエス様が「あなたの現在の収入は高いかもしれないが、その仕事を捨て、私に仕えなさい」と言われるなら、イエス様の国のために、私たちはその道を選ばなければなりません。

ときには、イエス様についていくことで、私たちの人生は大きく変わります。ときには犠牲を払うこともあるでしょう。けれども、もし私たちがイエス様のもとにいなければ、真に仕えることはできません。

忘れないでください。その犠牲と変化は痛みを伴うかもしれません。しかし、最終的には、その犠牲には大きな価値があります。

私は日本に引っ越したとき、そのことを学びました。もともとハワイを離れる予定はまったくありませんでした。けれども、実際に日本へ来ると、私は以前よりも幸せになりました。イエス様についていき、日本に来たことで、私は新たな命を見出しました。

イエス様についていくなら、あなたも命を見つけることでしょう。

あなたはどうでしょうか。イエス様がおられる場所に、あなたもいるでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ11章

私の信仰の強さは?

信仰。

実は、私は自分の信仰があまり強くないと感じています。特に、祈るときに自分の信仰が弱いと感じることがあります。私は祈るとき、本当に信仰をもって祈っているのでしょうか。「信仰をもって祈る」とは、どういう意味なのでしょうか。

イエス様が呪われた木が枯れたとき、弟子たちは非常に驚きました。そして、彼らはイエス様にこう尋ねました。

どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。(マタイ21:20)

イエス様はこのように答えられました。

神を信じなさい。(マルコ11:22)

「神様を信じなさい」とは何を意味するのでしょうか。私たちは何を信じるべきでしょうか。

1.神様が良い神であるということ。 神様は私たちを愛する天の父であり、私たちに良い賜物だけをくださいます。

だから、私たちがパンを願えば、神様は石を与えるようなことはされません。また、私たちが魚を願えば、神様は蛇を与えるようなこともされません。

2.神様が私たちの祈りを聞いてくださるということ。 どんなに小さな願いであっても、神様はそれを聞いてくださいます。私たちの問題がどれほど大きくても、またはどれほど小さくても、神様は祈りを聞いてくださいます。

3.神様が私たちの祈りをかなえる力を持っておられるということ。 神様にとって、私たちの願いは決して難しいものではありません。

4.神様が私たちを祝福したいと望んでおられるということ。 正当な理由がない限り、神様は私たちに良いものを与えることを控えることはなさらないのです。

5.神様が私たちのために良い計画を持っておられるということ。 神様の計画は私たちにとって良いものであり、その計画は私たちの益のために働きます。

これらの五つのポイントを覚えながら、イエス様の次の言葉を読みましょう。

まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、「立ち上がって、海に入れ」と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。

ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求める者は何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。(マルコ11:23-24)

この箇所を読んで、神様に何を頼んでも、神様がその祈りを必ずかなえなければならないと考える人がいます。

けれども、時には、私たちが魚やパンに見えるものを願っても、実際にはそれらが石や蛇であることがあります。例えば、ある男性や女性と結婚することを祈ったとしても、十年後には神様がその祈りをかなえなかったことに感謝するようになる場合があります。

また、私たちは良いことのために祈ることがありますが、神様はさらに良いものを用意してくださることがあります。例えば、新しい仕事を願って祈ったとしても、神様はそれよりも良い仕事を与えてくださいます。

ですから、信仰をもって祈ったとしても、神様がその祈りをかなえてくださるとは限らないのです。

けれども、通常、私の問題は間違ったことのために祈るのではありません。多くの場合、私の問題は、神様が私の祈りをかなえてくださることを信じきれていないところにあるのです。

例えば、私の現在の職場は非常に素晴らしい場所です。以前の職場よりもはるかに良い職場です。

しかし、その学校に応募した際には、多くの疑いを抱いていました。実は、数年前、その同じ場所で不採用になった経験がありました。それに、何度も良い仕事を願って祈ったものの、その祈りがかなえられることはありませんでした。

それでも、私が十分な信仰を持っていなかったにもかかわらず、神様の恵みによって採用されることができました。

また、私はがんを患った友人のために祈ったことがあります。医師たちはその状態を見て「もう手の施しようがない」と言いましたが、多くの人が祈り、私も祈りました。ただ、私はあまり希望を持つことができませんでした。

もちろん、神様が友人を癒す力を持っておられることは信じていましたが、本当に癒してくださるかどうかは分かりませんでした。結局、2人とも亡くなりました。それでも、神様は1人の命を約5年延ばしてくださいました。

さて、ここで私が言おうとしているのは何でしょうか。

神様は信仰を見ると喜び、祈りに応えてくださいますが、祈りが叶うかどうかは私たちの信仰の強さにはあまり関係がありません。たとえ信仰が小さくても、神様が祈りに応えてくださることは多々あります。

それでも、私はもっと希望を持って祈るべきだと感じています。なぜなら、神様は私を助けてくださるだけでなく、実際に私を助けてくださった経験があるからです。

そのため、私はよく次のように祈ります。

「あなたを信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

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マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ11章 ルカの福音書 ルカ19章

実のない木

多くの人々はこの話を読むと、イエス様の行為に疑問を抱きます。いちじくのなる季節ではなかったのに、どうしてイエス様は実を結ばない木を呪われたのでしょうか。

聖書学者たちにはさまざまな意見があります。

その中の一つの意見によれば、過ぎ越しの祭りの時期には、普通のいちじくの木は食べられる芽を実らせることがあります。もしかしたら、イエス様はそのような芽を探しておられたのかもしれません。けれども、木にそのような芽がなければ、おそらくいちじくの実がなる季節が来ても、その木は実を結ばないでしょう。

その意見が正しいかどうかはわかりませんが、筋の通った説明のように思えます。

いずれにせよ、マルコの福音書によれば、イエス様はいちじくの木を呪われた後、エルサレムに入って神殿を清め、エルサレムを離れる途中で弟子たちがその木が枯れていることに気づきました。

ですから、イエス様はこのいちじくの木を通して、弟子たちに何かを教えたかったのだと思われます。それは何でしょうか。

いちじくの木が実を結ばなかったために裁かれたように、イスラエルが霊的な実を結ばないために裁かれることです。このことは神殿の出来事において明らかにされています。

イエス様のミニストリーの初めにも、イエス様は神殿を清められました。イエス様は牛や羊を売っている人々を追い出し、両替人たちも追い出されました。それは、そこが外国人たちが入って礼拝できる場所だったからです。

彼らが神殿のさらに近い場所に行くことは禁止されていましたが、祭司たちはその場所を市場として使いました。それに加え、多くの人々がその業者や両替人によってだまされていました。

神殿であるべきその場所を、市場にしてしまったのです。祭司たちはそのような行為を許していました。

だから、彼らの修行や宗教的な熱心が堕落していたことは明らかでした。

さらに、彼らはイエス様をメシアとして拒絶するだけでなく、イエス様を殺そうともしていました。そのため、イスラエルは裁きを受けました。

ローマ帝国の将軍タイタスは、その神殿を破壊しました。そして今なお、その神殿は再建されていません。なぜでしょうか。それは、神様が長い間イスラエルに愛と恵みを注いでくださったにもかかわらず、彼らが霊的な実を結ばなかったからです。

一方で、神様の働きは実を結ばないわけではありません。ユダヤ人たちがイエス様を拒絶したことで、福音が世界中に広がりました。そして、ある日、ユダヤ人もイエス様を信じるようになるでしょう。(ローマ書11章)

とはいえ、私たちは自分自身に問いかける必要があります。私たちの人生はどのような実を結んでいるでしょうか。私たちの体は神様の宮です。その宮は霊的な実を結んでいるでしょうか。

私たちは周りの人々に良い影響を与えているでしょうか。もしかすると、この世のものに執着し、私たちの宮は汚されてしまっているかもしれません。

ユダヤ人の祭司たちのように、私たちはお金に執着しているでしょうか。または、他の世のものに心を奪われているでしょうか。もしそうなら、霊的な実を結ばないことによって、裁きの日に私たちの功績は焼き尽くされてしまうでしょう。

私たちが実を結ばない木のようにならないために、霊的な実を結びましょう。聖霊に満たされ、私たちの周りの人々に神様の愛を分かち合いましょう。

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私たちに平和を与えるもの

この箇所で、イエス様はついにエルサレムに到着されました。そして、四つの福音書を読むと、ユダヤ人たちの興奮がよく伝わってきます。彼らは叫び声をあげていました。

「ホサナ、ダビデの子に。」

「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」

「ホサナ、いと高き所に。」(マタイ21:9)

また、

「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に」(マルコ11:9)

そして、

「天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」(ルカ19:38)

そして最後に、

「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

大騒ぎのため、多くの人々が「一体これは何の騒ぎだ?この人は誰だ」と尋ねました。そして、ほかの人々が「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えました。(マタイ21:10-11)

ヨハネによれば、その大騒ぎの理由の一つは、多くの人々がまだラザロの復活について語り続けていたことでした。(ヨハネ12:17-18)

最初に、パリサイ人たちはイエス様にこう言いました。

先生、あなたの弟子たちを叱ってください。(ルカ19:39)

イエス様がその願いを拒まれると、彼らは不満を漏らしました。

見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。(ヨハネ12:19)

それでも、イエス様がエルサレムに近づき、その都市をご覧になった時、喧噪の中で、イエス様は涙を流しながらこう言われました。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。

彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。

それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカ19:42-44)

西暦70年、聖書に書かれている出来事が実際に起こりました。ローマの将軍タイタスは、エルサレムとその神殿を破壊しました。

なぜ神様はそれを許されたのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神の訪れの時を認識しなかったからです。彼らは神様の平和を逃しました。心の平安を失い、さらに神様との平和をも失いました。

同じように、神様は私たち一人ひとりに訪れます。ローマ人への手紙1章によれば、神様のことを聞いたことがない人であっても、すべての人が神様の存在を知っています。

彼らが星空を見たり自然の美しさを見たりするとき、聖霊様が彼らの心にこう語るかもしれません。「これは偶然ではありません。これはデザインされたものです。あなたが作った偶像はこれを作ることができません。真の創造者を求めなさい。」

また、教会でイエス様について聞くことがあるかもしれません。あるいは、友達がイエス様について教えてくれることがあるでしょう。

その時、彼らは分岐点に立たされます。彼らはどう選択するでしょうか。神様の言葉を聞いて従うでしょうか。それとも、その言葉を拒絶するでしょうか。

神様に従うなら、彼らは神様との平和と永遠の命を知ることができます。しかし、その言葉を拒絶すれば、裁かれます。

あなたはどうでしょうか。神様は今、あなたを呼んでおられます。今日は救いの日です。今、イエス様を受け入れませんか。

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主がお入り用なのです。

私たちはついに、イエス様の人生の最後の週にたどり着きました。

この箇所では、一つのフレーズが私の心を深く打ちました。イエス様は弟子たちに次のように言われました。

向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。

もし「どうして、ぼくのか」とだれかが尋ねたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。(ルカ19:30-31)

弟子たちがイエス様の言葉に従うと、その持ち主たちは彼らに問いかけました。

どうして、子ろばをほどくのか。(33)

弟子たちはイエス様の指示に従い答えました。その結果、持ち主たちはその子ろばを貸してくれました。

それを読んで、私は心の中で問いかけました。「主が私に、『私はこれが必要だ』と言う時、私はどう反応するだろうか。」

例えば、イエス様が「その人を助けるために、私はあなたのお金が必要です。その人は経済的に苦しんでいるから」と言ったら、私はすぐに「はい、どうぞ」と答えるでしょうか。

または、私がどこかに向かっている途中で誰かにばったり会った際に、イエス様が「私はあなたの時間が必要です。その人と話しなさい」と言ったら、私はどうするでしょうか。

または、イエス様が「あなたが西宮を去る時が来ました。私に仕えるために別の場所へ行きなさい」と言ったら、私は「はい、行きます」と答えるでしょうか。

それとも、私が自分の持っているものにしがみついてしまうのでしょうか。

実際には、自分自身で確信を持てません。過去を振り返ると、何度もイエス様が「こうしなさい。私はあなたからこれが必要だ」と言われたにもかかわらず、私は拒んでしまったことがあります。

「忙しい。」

または、

「私はそのお金が必要だ。別の物を買いたいから。」

弟子たちはそのろばをイエス様の元に連れて行き、イエス様をそのろばに座らせて、王としてあがめました。

私たちも同じようにするべきです。イエス様が私たちに「これが必要だ」と言われた時、私たちはその物をイエス様にささげ、イエス様を私たちの王としてあがめるべきです。

私はそうできるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。

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本当の聖さ

前回の記事では、王を拒絶する人々についてのたとえ話を読みました。今日の記事では、イエス様が指された人々について見ていきます。

イエス様がエルサレムに近づいておられ、多くの人々が過ぎ越しの祭りを祝うためにすでに集まっていました。そして、彼らは互いに訊き合いました。

どう思うか。あの方(つまり、イエス様)は祭りに来られないのだろうか。」(ヨハネ11:56)

なぜ彼らはそのように訊いたのでしょうか。

祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。(ヨハネ11:57)

実は、それは本当に皮肉なことでした。なぜでしょうか。

過ぎ越しの祭りを祝う前に、ユダヤ人たちは自分自身を清める必要がありました。つまり、儀式的に清められる必要があったのです。(ヨハネ11:55)

しかし、祭司たちやパリサイ人たちは儀式的には清められていたものの、心の中ではイエス様を殺そうと考えていました。

私たちはこの話から何を学ぶべきでしょうか。それは、聖さが単なる儀式的なものではないということです。聖さとは、教会に行くことや聖書を読むこと、献金をささげることだけではありません。

本当の聖さは、イエス様を王として受け入れることから始まります。

「イエス様、私は自分自身を清めることができません。儀式や自分の努力では清められません。イエス様、助けてください。私を清めてください。私の罪を赦してください。」

ヨハネは次のように書いています。

御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

私たちが神様に受け入れられることを願うのであれば、それ以外の方法はありません。私たちはキリストの十字架のもとへ行き、イエス様の救いの御業を信じる必要があります。

そうすることで、私たちは神様の目に清められるのです。

あなたはどうでしょうか。本当に清められているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ19章

キリストを拒絶することを主張すると

このたとえ話には、もう一つ重要なポイントがあります。

イエス様はこう言われました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。。。

一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、「この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません。」と伝えた。

さて、彼は王位を授か[りました]。(ルカの福音書19:12,14-15)

実は、このたとえ話は実際の出来事を基にしています。

ヘロデ大王が亡くなったとき、彼の息子ヘロデス・アルケラオスは王位を授かるためにローマへ行きました。(なぜなら、ローマ皇帝がイスラエルの本当の支配者だったからです)。

けれども、ユダヤ人たちは大使を皇帝アウグストゥスに送り、「ヘロデス・アルケラオスが私たちの王になることを、私たちは望んでいません」と訴えました。

最終的に、ヘロデス・アルケラオスはユダヤを支配することはできましたが、王位を授かることはできませんでした。

このように、イエス様は天の父から王位を授かるのを待っておられます。しかし今なお、多くの人々はイエス様を憎み、「この方が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません」と言います。

けれどもヘロデス・アルケラオスの場合とは異なり、彼らが望もうが望むまいが、イエス様は王となられるのです。

そして、彼らがイエス様に反対し続けるなら、たとえ話の中の人々のように裁きを受けることになります。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様をあなたの王として受け入れているでしょうか。望もうが望むまいが、イエス様は王となられます。それゆえ、イエス様に反対して裁かれるよりも、イエス様にあなたの人生を捧げる方が良いでしょう。

私は地獄の話で恐怖を煽ることを望んでいません。神様の愛と恵みこそが、はるかに幸せな物語です。そして、神様はあなたを心から愛しておられます。

神様との和解を可能にするため、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。そして、私たちの罪のために、イエス様は十字架で死んでくださいました。

しかし、もし神様の賜物を拒絶し、イエス様をあなたの王として受け入れないなら、あなたは裁きを受けることになるでしょう。

ヨハネは次のように書いています。

御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神様のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3:18)

あなたは選択する必要があります。どう決断するのでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ19章

ミナのたとえ話:私たちが待っているうちに

ルカによれば、イエス様がこのたとえ話を教えられた理由は、「イエス様がエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたから」です(ルカの福音書19:11)。

つまり、イエス様は彼らの間違った考えを正すと同時に、正しい考えを彼らの心に植え付けたいと思われたのです。それで、イエス様はこう言われました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。

彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。(12-13)

イエス様は、どのような間違った考えを覆したいと思われたのでしょうか。それは、神の国がすぐに来るという考えです。

王としての地位につく前に、イエス様は罪の問題を解決するために十字架で死ななければなりませんでした。

イエス様は死なれ、復活された後、天に帰って天の父の右に座られました。そして、聖書によれば、現在イエス様は「敵がご自分の足台とされるのを待っておられます」(へブル人への手紙10:13)。

ですから、私たちはいまだにイエス様の帰りを待っています。

では、イエス様が帰られるまで、私たちは何をすべきでしょうか。私たちはイエス様に忠実に仕えるべきです。

イエス様は弟子たちの心にその考えを植え付けたいと思われました。神の国のために、まだたくさんの仕事をしなければなりません。

このたとえ話では、王は十人のしもべに同じ金額を与えました。そして、王は彼らに、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と命じられました。

そのお金は何を象徴しているのでしょうか。おそらく、それは私たちの救いです。しもべたちはそのお金を得るために働いたのではありません。王はそのお金を彼らに預け、彼らはそれを投資しなければなりませんでした。

同じように、私たちは働いて救いを得たのではありません。神様の恵みによって救いが与えられました。しかし、私たちはその救いを用いて、神様の国のために働かなければなりません。

パウロは次のように言いました。

恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。【ピリピ2:12-13)

私たちが与えられた救いを投資するとは、どういう意味なのでしょうか。それは、私たちが受けた救いを用いて、周りの人々に投資することを意味します。

私たちは自分の救いを喜ぶだけではなく、その救いを周りの人々と分かち合う心が必要です。彼らのために祈り、彼らに仕えましょう。

そして、私たちは彼らに対して、イエス様の目、口、耳、手となるべきです。イエス様が帰られるまで、私たちはそうし続けなければなりません。

そのように行動するなら、私たちは報いを受けるでしょう。どんな報いでしょうか。それは、神様の国のためにさらに大きな責任が与えられることです。

多くのクリスチャンは神様のために素晴らしいことをしたいと思っています。しかし、もし彼らが受けた救いを周りの人々と分かち合わないのであれば、神様がさらに大きな責任を彼らに委ねられるでしょうか。

さらに、最後のしもべのように、神様の国のために投資をしないのであれば、イエス様が帰られるとき、その人々は叱責されることになるでしょう。

パウロはそのような人々について次のように語っています。

その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:15)

あなたはどうでしょうか。あなたが受けた救いで、何をしているのでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ19章

私たちのせいで

これはとても有名な聖書の話ですが、今日この個所を読んでみると、今まで読み過ごしていた箇所が心に強く響きました。

[ザアカイ]はイエス様がどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。(ルカの福音書19:3)

ザアカイは取税人でした。現代でも、多くの人々は税務署を嫌うかもしれませんが、イエス様の時代では、ユダヤ人たちは取税人を非常に憎んでいました。

以前にも私は述べましたが、取税人はユダヤ人たちが嫌うローマ帝国に協力し、自分の民をだましていたため、ユダヤ人の間では全く人気がありませんでした。

それでも、ザアカイはどうしてもイエス様を見たいと思っていました。なぜでしょうか。

おそらく、彼は多くのお金を持っていましたが、彼の心はまだ空虚でした。けれども、ザアカイがイエス様を見ると、イエス様の中に他の人とは違う何かを見ました。つまり、命と希望を見たのです。

ところが、群衆のせいで、ザアカイにはイエス様が見えませんでした。

おそらく、その群衆の中には信心深い人々が多くいたでしょう。彼らは神様を愛していたかもしれません。それでも、彼らの存在がザアカイにとって障害となり、イエス様を見ることを妨げました。

ザアカイは背が低い人でした。そして、大勢の人々がいました。もしザアカイが無理にイエス様のところへ行こうとしたら、群衆の反応を予想することができたでしょう。彼らがザアカイを認めたとしても、きっと彼を通らせなかったでしょう。

そのため、ザアカイは木に登りました。そしてザアカイを見て、イエス様はこう言われました。

ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。(5)

もしザアカイが、人々が彼に抱いている意見について疑いを持っていたなら、彼らの反応によってその疑いは完全に吹き飛ばされたでしょう。彼らは不満を言い立てました。

[イエス様]は罪人のいところに行って客となった。(7)

しかし、ザアカイがイエス様の愛に触れたことで、彼の心は大きく変わりました。そして、彼はこう言いました。

主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。(8)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれほど群衆のようにふるまうことがあるでしょうか。神様を愛していると言うかもしれませんし、イエス様に従うと言うかもしれません。それでも、私たちのせいで周りの人々がイエス様を見られないことはないでしょうか。

私たちは彼らにイエス様のことを伝えているでしょうか。それとも、彼らを見下したり、追い出したりしているでしょうか。

ザアカイに対するイエス様の反応を覚えていましょう。イエス様は、すべての人々との関係を望まれます。そのため、イエス様は十字架にかかられました。イエス様は私たちだけのために死なれたのではなく、彼らのためにも命を捧げてくださいました。

イエス様は軽蔑されている人々のためにも命を捧げられました。だから、人々を軽蔑してはいけません。

また、人々がイエス様のもとに来ようとするとき、その道を妨げることのないようにしましょう。むしろ、イエス様の言葉を心に刻みましょう。

人の子は、失われたものを探して救うために来たのです。(10)

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周りの人々のニーズに目を向ける?

私がバルティマイとその友達の話を読むと、イエス様の愛と憐れみ深い心は、私にとても印象的です。

イエス様はもうすぐ十字架に行くし、そのことを親友たちにはっきりと伝えたのに、彼らは理解してくれませんでした。そんな状況で、イエス様が自分の思いや、フラストレーションや、心配で思い詰めていたなら、びっくりすることではなかったでしょう。

でも、その道を歩いているうちに、イエス様は前に何回も聞いていた願いをもう一度聞きました。

主よ。ダビデの子よ。私たちを憐れんでください(マタイ20:30)

大勢の人がイエス様を取り巻いており、イエス様がその声を見逃すのは簡単だったかもしれません。

また、その声を無視するのも簡単だったでしょう。なぜなら、多くの人がその二人に「黙れ」と言ったからです。

しかし、イエス様は立ち止まり、「その二人を呼んできなさい」とおっしゃいました。

そして、彼らが来ると、イエス様は彼らに尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのですか。」

彼らは答えました。「主よ、目を開けていただきたいのです。」

マタイによると、イエス様は深く憐れみ、彼らの目に触れて癒されました。

イエス様はご自身のフラストレーションや困難に思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に目を向けられました。

私たちはどうでしょうか。どのくらい私たちはイエス様の模範に従い、自分自身のことで思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に気づいているでしょうか。

また、どれだけ自分自身の必要やフラストレーションに思い詰めることで、神様の愛を周りの人々に伝える機会を逃しているでしょうか。

おそらく、私もそのような機会を逃してきたことが多いでしょう。

私たちはイエス様のようになることを学びましょう。私たちの苦しみや心配にとらわれることなく、周りの人々のニーズや痛みに目を向けましょう。そして、イエス様のように、彼らに手を差し伸べ、神様の力で彼らを癒しましょう。

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全く違う態度

前回の記事で述べたように、イエス様は弟子たちにはっきりとご自分のミッションを説明されましたが、彼らはまだ理解していませんでした。

彼らは、なぜイエス様がこの世に来られたのか、また、間もなく訪れる試練について理解していませんでした。

もし彼らがそのことを正しく理解していたなら、おそらくヤコブとヨハネ(そして彼らの母親)は、イエス様にこの願いをしなかったでしょう。彼らは次のように頼みました。

あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。(マルコ10:37)

イエス様はその願いを聞いて、どのように感じられたでしょうか。その直前に、イエス様は彼らに「私はすぐに殺される」と語られたばかりでした。

それにもかかわらず、弟子たちは自分たちの地位のことを気にしていたのです。そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けることができますか。(マルコt10:38)

つまり、「私の話を全然聞いていないのですか。私は死にます。あなたたちは私の右と左で死にたいと思うのですか」ということです。

それがイエス様が意味されたことでした。けれども、いつものように、ヤコブとヨハネはその言葉を完全に誤解しました。そのため、彼らは「できます」と答えたのです。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。(39)

実際、その二人は後にイエス様のために大きな苦しみを経験しました。ヤコブは殉教し、ヨハネは追放されました。

それでも、イエス様は彼らにこう言われました。

しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。(40)

他の弟子たちはヤコブとヨハネの願いを聞くと、本当に怒りました。なぜでしょうか。ヤコブとヨハネがイエス様の感情を全く考えなかったからでしょうか。

いいえ、そうではありません。おそらく、彼ら自身がヤコブやヨハネよりも、自分たちのほうが資格があると思っていたからでしょう。

それでも、イエス様は彼らを集めて、こう言われました。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マルコ10:42-45)

要するに、イエス様はこう言われていました。

「あなたたちは自分自身の態度を変えなくてはなりません。

あなたたちは、私の王国においてどのような位置を持つかを心配しています。それは、偉い人が楽な人生を送るものだと思っているからです。あなたたちは、周りの人々に命令し、彼らがあなたたちに仕えるだろうと思っています。

けれども、私の王国では、それが偉い人ではありません。もしあなたたちが偉くなりたいのであれば、人々に仕えなければなりません。そして、もし先頭に立ちたいのであれば、皆のしもべにならなければなりません。

なぜなら、私は仕えられるために来たのではないからです。私は人々に仕えるために来たのです。さらに、私は彼らのために命を捧げるために来たのです。」

実際、私自身もそのような態度が必要です。私はしばしば自分自身を他の人々と比べたり、競争したりしてしまいます。けれども、ミニストリーにおいて、そのような態度は適切ではありません。私たちは仕える心が必要です。

この態度はミニストリーだけでなく、私たちの日常生活にも欠かせないものです。

職場では、私たちは同僚や顧客に仕えるべきです。

家庭では、夫たちは妻や子供に仕える心を持たなければなりません。

正直に言うと、この三つの場面において、私はよく失敗します。

それゆえ、ある古い英語の讃美歌が、私の祈りそのものです。

また、「The Witness」(目撃者)というクリスチャンのミュージカルの中で、ヤコブとヨハネは次のように歌いました。

Lord make me like you.  Please make me like you.
主よ、私をあなたのように変えてください。
You are a servant.  Make me one too.
あなたはしもべです。私もしもべとなれるようにしてください。
O Lord I am willing.
主よ、私の心は開いています。
Do what you must do to make me like you Lord.
あなたがしなければならないことをどうぞしてください、私があなたのようになれるように。
Make me like you.
あなたのように私を変えてください。
Whatever you do Lord, please make me like you.
何をされても、どうしても私をあなたのように変えてください。

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明確に語られたことを理解していない?

この話では、ルカの言葉が私の心に深く響きます。

弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカ18:34)

もちろん、「これらのこと」や「このことば」というのは、イエス様の死と復活を示しています。

ルカの言葉が私の心に深く響く理由は、イエス様が自分の死と復活について明確に語られたことです。弟子たちはその言葉を理解できたはずですが、それでも彼らは理解できませんでした。それはなぜでしょうか。

もしかすると、彼らはまだ霊的に成熟していなかったのかもしれません。多くの若いクリスチャンが聖書を読むとき、理解できないところが多いでしょう。けれども、私たちの信仰と知識が成長するにつれて、さらに理解が深まるでしょう。

あるいは、弟子たちには霊的成熟の問題だけではなく、イエス様の言葉を受け入れたくないという心の壁があったのかもしれません。イエス様がすぐに死ぬという現実を信じたくない彼らは、自分の耳を閉じてしまいました。

もう一つの理由は、彼らが神様の御心よりも自分たちの望みを優先していたことです。次の話の中でヤコブとヨハネの願いを見れば、彼らの自己中心的な姿勢が見えてきます。

しかし、どれほど私たち自身も同じような態度を取ってしまうでしょうか。聖書では神様の言葉がわかりやすく、神様が私たちの心にはっきりと語りかけてくださるにも関わらず、私たちはそのメッセージを見逃してしまうことがあります。

例えば、振り返ると、私がハワイに住んでいたとき、神様は私を日本に行くように呼ばれていました。何度も、「あなたは事務などの仕事には向いていない。ミニストリーをした方がいい」と言われました。

ある人々は率直に、「あなたは宣教師として日本に行くべきだ」と直接言われました。

けれども、当時の私はハワイを離れる気も、日本に行く気も全くありませんでした。

そのため、神様の言葉を受け入れることができませんでした。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という言葉を聞いても、「それは私のためではない」と思い込んでいました。

それでも神様は私の心に働き続け、数年後、日本に導かれました。そして、神様に従う喜びや、神様の言葉に従う喜びを経験することができました。

もし、あなたが心を神様に開けば、あなたもその喜びを知ることができるでしょう。

あなたの心は今、どんな状態でしょうか。神様があなたに語りかけておられるのに、その言葉を退けてはいませんか。それとも、その言葉に心を開いているでしょうか。

私たちはいつもこう祈りましょう。「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」