前回の記事では、王を拒絶する人々についてのたとえ話を読みました。今日の記事では、イエス様が指された人々について見ていきます。
イエス様がエルサレムに近づいておられ、多くの人々が過ぎ越しの祭りを祝うためにすでに集まっていました。そして、彼らは互いに訊き合いました。
どう思うか。あの方(つまり、イエス様)は祭りに来られないのだろうか。」(ヨハネ11:56)
なぜ彼らはそのように訊いたのでしょうか。
祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。(ヨハネ11:57)
実は、それは本当に皮肉なことでした。なぜでしょうか。
過ぎ越しの祭りを祝う前に、ユダヤ人たちは自分自身を清める必要がありました。つまり、儀式的に清められる必要があったのです。(ヨハネ11:55)
しかし、祭司たちやパリサイ人たちは儀式的には清められていたものの、心の中ではイエス様を殺そうと考えていました。
私たちはこの話から何を学ぶべきでしょうか。それは、聖さが単なる儀式的なものではないということです。聖さとは、教会に行くことや聖書を読むこと、献金をささげることだけではありません。
本当の聖さは、イエス様を王として受け入れることから始まります。
「イエス様、私は自分自身を清めることができません。儀式や自分の努力では清められません。イエス様、助けてください。私を清めてください。私の罪を赦してください。」
ヨハネは次のように書いています。
御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:7)
私たちが神様に受け入れられることを願うのであれば、それ以外の方法はありません。私たちはキリストの十字架のもとへ行き、イエス様の救いの御業を信じる必要があります。
そうすることで、私たちは神様の目に清められるのです。
あなたはどうでしょうか。本当に清められているでしょうか。
